見出し画像

個展『SNSよ、ぼくを生かして』から考える、SNSとはなにか?

はじめに


この文章は、ただ俯瞰的に15日間の実証実験から得たSNSへの自己解釈を述べるに過ぎない。
事の善悪やモラルの話をする気は全くない。
この文章内に感情は限りなく入れないように心掛けており、出来るだけ現象だけを捉えているつもりだ。

まず、この展示の登場人物を
・パフォーマー(ヒサノモトヒロ)
・参加者…来場者または物資等の手配をした視聴者
・視聴者…傍観者としての参加をした視聴者
と定義する。

個展『SNSよ、ぼくを生かして』についての概要

・普段SNSを通して仕事をし生活するパフォーマーを物理的に監禁し、SNSに命を預けて15日間生活をさせる。またそのパフォーマー自体を展示物とする展示『SNSよ、ぼくを生かして』を、2020年11月28日〜12月13日の15日間行なった。

・当展示において、パフォーマーは"ひとつのSNSアカウント"だと定義した。

・展示期間中、パフォーマーは監禁されている物件から一歩も外に出ない。

・その物件内には最低限の衣服とSNSをする為の道具(iPhone2台・iPad・MacBook・ネット環境・それらの充電器)のみが存在し、飲用水や食料、その他生活必需品などは存在しない状態から始まった。(トイレはある)

・該当物件の住所は公開しない。なお、パフォーマーが住所を教えて大丈夫だと判断したアカウントのみに、該当物件の住所を適宜公開した。

・パフォーマーは15日間、配信の切り替えや機材トラブルを除き、24時間断続的にSNS上で配信され続けた。

なぜ『SNSよ、ぼくを生かして』を開催したか

パフォーマーは主にSNSを通じて仕事や収入を得て生活をしている。

ひとつの"アカウント"というフィルターを通して、その"アカウント"の価値を金銭に変えて生活をしているともいえる。

SNSにおいて、そういったアカウントは多数存在し、人が生きていく手段として"アカウント"を作り、価値を高めていく事も散見する。

また、彼らは多くの他のアカウントの支持を集め、自らの活動領域や影響力を拡大する事で価値を高めようとする。

それらは多くの場合"フォロワー"の数や質に担保される価値であり、それが"アカウント"の価値に直結する場合が多い。

"アカウント"の価値とはどこにあり、それはパフォーマーの価値であるのか。

"アカウント"の価値の基準はパフォーマーなのか、フォロワーなのか。

"アカウント"と"フォロワー"の相互関係と、パフォーマーの人間関係に差異はあるのか。

"アカウント"を軸に生活するとはどういう事なのか。また、パフォーマーは"アカウント"に生かされているのか、"フォロワー"に生かされているのか。

SNSに依存した生活を続ける中で、パフォーマーは"アカウント"におけるイニシアチブの所在を考えるようになった。

しかし何にせよ、パフォーマーがSNSに生かされている事実に変わりはない。

その一方で、SNS上でのトラブルは後をたたない。時としてそれは、人の命すら奪う。

パフォーマーはトラブルの当事者になった事はないが、SNSの被害者はパフォーマーの周りも含め数多く存在する。

SNSにおける被害(誹謗中傷等)のほとんどは、アカウントではなく、アカウントを所持する本人が攻撃の対象になる。
場合によっては、住居や本名の特定を経て、直接的な攻撃が加わる事すらある。

しかし攻撃されている側からは、危害をくわえる"アカウント"の本質はわからない。
もちろん情報開示請求等然るべき手段をとれば別だが、それを踏まえても精神的にも肉体的にもかなりの負担になるのは言うまでもない。

SNSにおいて、人は"アカウント"に傷つけられ、殺されているのが現状だ。

そんな様々な顔を持つSNSというプラットフォームに、物理的に命を預けるとどうなるのか。

パフォーマーの"アカウント"とその"フォロワー"は、パフォーマーを生かすのか、殺すのか。

また、視聴者は"アカウント"を通してパフォーマーを見たときに、どんなふうに思い、どんな行動するのか。

視聴者がSNS上で24時間視聴可能なパフォーマーは"アカウント"なのか、"人間"なのか。

私たちはSNSとどう付き合っていくべきなのか。

この個展を通して、その一端を知りたいと思い、『SNSよ、ぼくを生かして』の開催に至った。

『SNSよ、ぼくを生かして』考察


1."アカウント"と"フォロワー"の相互関係について

SNSにおいて"アカウント"と"フォロワー"の関係性は、実に多様である。

友達・知り合い・仕事仲間・クライアント・ファン・アンチ・興味本位・使用されていないアカウント…

一言でフォロワーといっても、一つ一つのアカウントとの関係性はそれぞれであるし、フォローしている理由もひとつではない。

しかし、フォローをする理由を大きく分ければ

・実社会の関わりからのフォロー
・類似性からくるフォロー
・衝動的なフォロー

の3種類だと考える。



①実社会の関わりからのフォローついて

これは現実の友人・知人・親戚や、仕事の関係者やクライアントなど、SNSでの関わりの有無に関係なくお互いに存在を認識しあっている対象との、実社会の延長線上にあるSNSの関係性の事を指す。

このタイプのフォロワーとは、相互フォローである事が多い。


②類似性からくるフォローについて

これは趣味・仕事・興味の対象などが共通、またはその道のプロや、憧れの対象に対するフォローなどの事を指す。

特定の狭いニッチなカテゴリー(ウイスキー・ポートレート写真・特定のアイドルグループ等)から、広いカテゴリー(ビジネス・クリエイティブ・アート・エンタメ等)まで、人によってその類似性の範囲は様々だ。

しかし共通して、ある一定の共感性と類似性認知をお互いに持つことが多く、コミュニティが形成されやすい。

形成されたコミュニティは、〇〇界隈や、〇〇クラスターなどと呼称される事もある。

SNS内に存在するコンテンツの主なユーザー層はここに分類されることが多いだろう。

また、SNS上で発生する小規模なトラブルは、そういったコミュニティ内で発生することが多い様に感じる。


③衝動的なフォロー

これはSNS上でたまたま遭遇した、新たな興味やコンテンツに対して、衝動的に行うフォローのことを指す。

また炎上や誹謗中傷等、渦中のアカウントをフォローしたり、前澤社長のお金配りなど実益が生じる可能性があるアカウントをフォローする場合も、ここに分類する。

このタイプのフォロワーは②予備軍の可能性もあるが、基本的にリムーブ率が高い。そもそもあまり興味がないからである。

また、大規模な炎上などに加担するユーザーはここに属することが多い様に感じられる。


かくして、それぞれの思惑で"対象のアカウント"をフォローした"フォロワー"だが、フォローした"対象のアカウント"と"フォロワー"の関係性はどうなるのだろうか?

この展示において、パフォーマーの頼みの綱は"フォロワー"であった。
ここでいう"フォロワー"とは、"パフォーマーの行動に対してポジティブかつ行動的なフォロワー"に限定される。

なぜなら、パフォーマーはまず自らの生命維持に必要なものをフォロワーから得なければいけなかったからだ。

また、パフォーマーのフォロワーの多くは②に分類されるだろうと予想される。(②から①に変化したフォロワーも多いが)

この展示において、パフォーマーの来客以外の他者とのコミュニケーションのほとんどが、SNSまたは配信上で行われた。

3日目あたりまでのパフォーマーは、配信のコメントに対しても細かくレスポンスをし、フォロワーに対しての発信活動も活発に行なった。

なぜなら生命の危機にあったからだ。

この時点では、この展示に対する反応のほとんどが②に分類されるフォロワーからのものだった。

しかし生活が安定すると、その頻度は徐々に少なくなり、9日目を超えると1日を通してほとんど配信に対してレスポンスをしないようになり、発信活動も希薄になった。

すると②のフォロワーからの反応は減少し、来客もSNSでの反応も①のフォロワーが主になっていった。

ある研究によると、SNS上で類似性を高く認知するほど、それらの人々が予想とは異なる行動をした場合、不寛容性が高くなることが示唆された。

今回の展示においては、②のフォロワーが持つ興味に対して、パフォーマーの行動がそれを逸脱していったことが、反応の減少につながったのだろうと推測される。

最終的に①のフォロワーが主になった理由は多々あるとは思うが、結局のところ人間関係は大切って話。

ただしSNSを通して①のフォロワーを新たに獲得する事は可能であり、今回の展示に関しては、パフォーマーがこれまでSNSから獲得した多くの①のフォロワーに生かされているのを考えると、人間関係ってほんとに大切って話。


2.SNSとエンタメについて


まずこの展示において、パフォーマーは『エンタメ』を行なったわけではない。

これはある種の社会実験を行なったにすぎず、よく比較としてあげられる『電波少年』や『いきなり黄金伝説』などのバラエティ番組とはそもそもコンセプトが違う。

とはいえやっている事は似ているので、この展示がエンタメになり得るというのは頷ける。

というより、エンタメかどうかは各々が勝手に解釈していただければ結構で、楽しんでくれるのに越した事はないと個人的には思う。

しかしながら、SNSにおいて発信はエンタメでなければいけないのだと痛感した。

この展示中、主に後半よく耳にしたのは

「もっと苦労しなくちゃ面白くないよ」

という類の意見だった。

今回の展示において、パフォーマーの生活レベルは右肩上がりに向上していった。
これは、たくさんの人の協力でなされたものだ。

しかし、パフォーマーの生活レベルの向上とともに、視聴者数やフォロワーは減っていった。
これはエンタメ性の減少によるものだろう。

元よりパフォーマーが何かエンタメ性のある行動をしていたわけではないが、少なくとも生活が豊かになり、苦労をしなくなった時点で、視聴者の一部は"このコンテンツからはエンタメ性がなくなった"と判断したと考えられる。

古今東西、人の不幸は娯楽である。
YouTubeだろうが民放だろうが。バラエティだろうが社会派だろうが。媒体がなんであれ、不幸や苦労は娯楽だ。

それはもはや分かりきっていた事であるが、この「もっと苦労しなくちゃ面白くないよ」という言葉には、『エンタメであれ』という意味が多く含まれている。

SNSはテレビやYouTubeと違い、発信者と受信者が同じ立場と場所で活動をしており、そこに立場上の差異はない。
SNSというメディアを使って発信するアカウントは勝手に発信するし、それを受け取るアカウントは勝手に受け取る権利がある。

しかし、ほとんどの場合において、発信者はエンタメであることを望まれる。
これは極論だが、『発信するならエンタメであれ』と言われているとすら思う事がある。

とはいえ、繰り返しになるがこの展示においてパフォーマーは社会実験を行ったに過ぎず、『苦労をしてエンタメを発信したかった』訳ではない。

しかしながら、今回の展示で発生した現象から考えるに、SNSの発信は、内容はどうであれエンタメである事が必要不可欠であるという事だろう。まあ言うまでもないが。

そんな中で個人的に興味深かったのは、この展示のエンタメ性が薄れていくにつれて、この展示への参加者の加虐性が増していった事である。

まず展示の参加者は、根本的にこの展示自体を楽しもうとしている。
もちろん楽しみ方はそれぞれであるが、どこかにエンタメ性を見出し、娯楽としてこの展示を消化する。

参加者視聴者ともに、序盤パフォーマーが苦しんでいる段階においては、娯楽として消化する人の数は多かったように見受けられる。

しかし日を追うごとに、パフォーマーが苦しまなくなってくると、視聴者は離れ、参加者は加虐性を増した。

臭豆腐を送ったり、筋トレをさせたり、辛い麺を食べさせたりと、どうにかしてパフォーマーの苦痛を引き出そうとしたのだ。

この加虐性というのは悪意からくるものではない。むしろパフォーマーに対する善意からくるものが多かった。

あくまでこの展示がコンテンツとしてのエンタメ性を増すために、この展示とパフォーマーに対してポジティブなスタンスで行った加虐である。

加虐が全て悪意からくるという訳ではない。しかしながら、善意が全て正しいとも限らない。

時として人は善意を盲目的に正しいと錯覚し、無意識に何かを加虐をしている事象は多く見られる。

特にSNSにおいては、善悪のポジショニングが非常に分かりやすく顕著に可視化される。(ある価値観における被害者・加害者など)

SNSのようなメディアにおいては、対等の存在である発信者が発信するエンタメに対して、極論ではあるが下記のような事が起こり得る。

不幸や苦労を娯楽にする事をエンタメの一種であると仮定した場合、そのエンタメを作る発信者を不幸にする事は、その発信者の為になる。

発信者は不幸になればなるほどエンタメになる可能性を秘めている。

発信者のファンは、発信者が不幸になればコンテンツとして成長すると考えるので、発信者に対して善意で加虐をする。

この事象は多く見られるが、それを個人的には善いとも悪いとも思わない。
というか、各発信者のキャパシティや損得などもあるので、一概に言えた話ではない。

しかし、そのキャパシティや損得を測り間違え、結果的に発信者を被害者にする事もある。
『良かれと思って』とはよくいうが、良かれと思った事が全て良い方向にいくわけではないという話だ。

そもそも、ここでは"加虐"という鋭い言葉を使ったが、一般的にはそれを"加虐"とは言わない。特に大衆的なメディアにおいてはポジティブなイメージの文言で呼称されることすらある。

この一連の文章を読んで、勘違いしていただきたくないのは、別に僕がそれらの加虐によって傷ついたとか、その加虐に対して嫌悪感を抱いたとか、そういう事ではない。

エンタメにはこういう側面もあるんだなと実際に経験し、改めて認識した事象をただ書いているだけである。


3.SNSの攻撃性について


当展示において、パフォーマーは基本的に映像としてSNSの中に存在し続けた。
所詮ひとつのアカウントではあるから、攻撃的なコメントや言論の対象、ひいては攻撃的な行動の対象になりうる可能性は大いにある。

1974年にマリーナ・アブラモヴィッチによって行われた『Rhythm 0』では、マリーナ・アブラモヴィッチが自ら客体となり、主体となった観客の彼女に対するアクションを確かめた。
結果としてアブラモヴィッチは参加者たちにより体を切りつけられ、服を切り裂かれるという残酷な結末になり、またパフォーマンスが終わりアブラモビッチが動き出すと、観客は”客体”であったアブラモビッチが主体的にいたことに逆に怯えて逃げ出したという。

『Rhythm 0』を通してアブラモビッチは「人々は自分の個人的な楽しみのためだけに、他者を殺すことができるのだ」と語っている。

ではこの展示においてはどうだったか?

今回のパフォーマンスに対しても「死ねって言ったら死ぬんだな?」、「襲撃されても文句は言えないから、襲撃させよう」などといった意見は、少数ではあるが存在した。

しかし会期の15日間に、そんな事は起こらなかった。

まず、この展示においてパフォーマーはある種の”客体”であったが、「客体を生かすか殺すか」という根本的な部分に観客の主体が存在していたため、道徳的な観点から攻撃的な行動に至ることが 難しかったと推測される。さらに参加者の中でパフォーマー救済の雰囲気が大きかったことも要因の一つだろう。

また、当展示がSNSを通して四六時中配信されていたため、攻撃行動はリアルタイムで実況される可能性があったというのも、パフォーマーが攻撃の対象にならなかった要因だと考えられる。

結局のところ自分が明確な加害者になる事を恐れているということだろう。

あくまで安全なところから攻撃がしたいのである。

しかし、これは当たり前の話だ。人類は元来攻撃性の強い生物であるし、安全なところから攻撃ができるのなら、それに越した事はない。ある種本能とも言えるかもしれない。

SNSにおける攻撃性の所以は、責任の所在の曖昧さにあるのだとおもう。

炎上にしろ、誹謗中傷にしろ、自らが明確な犯人になる可能性が低いと判断すれば、人間が潜在的に持っている攻撃性が露見する可能性は高い。

仮に、もし純粋にパフォーマーの死を望んでいた人がいたとしたら、パフォーマーがのうのうと生きている事に対して、どんな感情を抱いたのだろう。

差し入れに対して「余計なことしやがって」「そんな事したら生き延びてしまうだろ」などと憤ったりしたのだろうか?

もしもそうだとして、では、死を望む人は何をすべきだったのだろう?

実際今回のような形で、アカウントの中の存在を証明し続けている(配信を24時間続けている)場合、暴力や襲撃などの直接的な犯罪は十中八九バレる。

では、SNSで散見するような、死に追い込むほどの精神的ストレスを与える手段はどうか?

今回の展示において、良くも悪くも恵まれた環境で生きているパフォーマーを叩くという行為は、自らの首を絞める可能性すらあるリスクの高い手段だ。
なぜなら、恵まれた環境を作り出したのはパフォーマー本人ではなく、その周りの多くのアカウントである。よって、アンチ意見がよっぽど大きくなければ攻勢が逆転する可能性すらあるだろう。

またこの展示の性質上、パフォーマーはベビーフェイスではないが、かといってヒールでもない。
よって、大して炎上をする要因もない。
炎上しなければ、攻撃性の高い感情の集団心理が働かず、直接はおろかSNS上での攻撃行為すらままならないだろう。

かつ当パフォーマーには知名度もなく、ネームバリューもない。
著名人などに有効な、不特定の大人数からの精神的な攻撃というのも事実上不可能に近い。

本当に死を望むのであれば、リスクを背負い殺意に任せて直接命を取るほかないのかもしれない。

または、なんとかして社会的な死をもたらすか。

なんにせよ、もはや整った生活空間を壊す事はほぼ不可能であったから、本体を叩くしかない。手出しができない状態にあったから、可能な手段といえば、そこのルールに則って悪意から非人道的な加虐することくらいだろうか。


4.傍観について


この展示において、「傍観は死の肯定である」という意見もあったが、本当にそうだろうか?

基本的にSNSを使う上で、多くの人は多くの物事に対して傍観している。
SNSにおいて"傍観"というのは、大衆的な行動であり、むしろ"傍観しない"方がマイノリティである。

しかしながら、この展示において"傍観"という行動は非常にセンシティブなものだったと思う。
なぜなら"傍観"に人を殺す可能性が、ごく少量ではあるが含まれていたからだ。

その結果、パフォーマーはたくさんの支援物資を頂き、何不自由なく暮らすことができた。
実際に会場に来てくださる方にしても、十中八九何か差し入れを持ってきてくれた。

これはパフォーマーとしてはとてもありがたく、非常に感謝をしているし、本当に頭が上がらない。

しかしながら、ごくたまにではあるが、どこか"傍観"に対する嫌悪感のようなものが見え隠れすることもあった。

それは、下手をすれば"傍観"="悪"になるという可能性すらあったという事だと思う。

冒頭に「傍観は死の肯定である」という意見もあったという紹介をした。
これはこの展示において、ひいてはSNSにおいて"傍観"という行動の価値が少なからず変化した瞬間だったのではないかとすら思う。
(この展示における主語が"SNS"という大きなものになっているので、ここでSNSという大きな主語を使うことをご了承願いたい。)

そうなってしまえば、善行という大きな大義名分の元、悪行というレッテルを貼られた"傍観"というありふれた行動に対して、バッシングなどが及んでしまう事も考えられる。

突発的な善悪の価値観の変化や、ムーブメントなどによって、昨日まで大衆的だった価値観が突然攻撃の対象に変わる。こういった現象は多く存在する。

フェミニズムやLGBTQ、ルッキズムやレイシズム、諸ハラスメント問題などをはじめとして、日々世界規模で価値観が流動的かつセンシティブに変化し続けるものが多く存在する。そしてそれらがSNSなどを通して影響力を持ちやすい。

すると、それに順応できないものは、攻撃される対象になってしまう危険性すらある。昨日と何も変わっていないのに。

一応補足として。
これはその現象にたいして善悪を問うてるわけではなく、あくまでそういう現象もあるよねという話だ。
善いとか悪いとかではないし、各主張に対して非を唱えているわけではないということを留意していただきたい。


5."アカウント"のイニシアチブの所在


結局のところアカウントのイニシアチブはどこにあるのだろうか?

今回の展示を通して、パフォーマーは『ヒサノモトヒロ』というアカウントのイニシアチブの所在について考えながら、15日間を過ごした。

結果的に、現時点でパフォーマーが出した結論が以下の通りである。

アカウント『ヒサノモトヒロ』のイニシアチブはパフォーマーに帰属するが、アイデンティティは『ヒサノモトヒロ』を認知しているフォロワーに帰属する。

まず、パフォーマーが『ヒサノモトヒロ』を停止すれば、有無を言わさず『ヒサノモトヒロ』は消滅する。
また『ヒサノモトヒロ』がどんな活動をするか、その決定権は現状パフォーマーにしか無い。

よって、イニシアチブはパフォーマーにある。

但し、それは『ヒサノモトヒロ』というアカウントに限った話であり、他のアカウントはその限りではない。

というより、基本的にアカウントのイニシアチブは運用する人にあるが、中には団体や事務所にイニシアチブがある場合も往々にしてあるので、一概に言えないというのが正しい。

なんにしても、『ヒサノモトヒロ』というアカウントに関しては、イニシアチブはパフォーマーに帰属する。

しかしながら、『ヒサノモトヒロ』としてのアイデンティティはフォロワーに帰属すると考える。

『ヒサノモトヒロ』として活動をする上で、パフォーマーは様々な事をアカウントを通して発信する。

しかしそれらの発信が、SNS上で『ヒサノモトヒロ』のアイデンティティになるには、一定の反応を得る必要がある。

その結果『ヒサノモトヒロ』は写真・映像・神などといったアイデンティティを得るに至った。

よって、これらのアイデンティティを作り出したのはフォロワーであり、これから新たなアイデンティティを作り出すのもフォロワーであると言えるだろう。

厳密にいうとフォロワーの反応の総量と、フォロワーのアイデンティティがあり、それの一端を各フォロワーが担っているといった方が正しいかもしれない。

しかし、ここで勘違いしないで欲しいのは、あくまで『ヒサノモトヒロ』としてのアイデンティティがフォロワーに帰属するというだけで、パフォーマーのアイデンティティとは別である。

むしろ『ヒサノモトヒロ』がパフォーマーのアイデンティティのひとつであるともいえるので、これはもう卵が先か鶏が先かみたいな話になる気がする。

そんな中、身も蓋もないことを言うようだが、それらを根本的に握っているのは、SNSというプラットフォームである。

仮にプラットフォームが『ヒサノモトヒロ』を凍結したり、プラットフォーム自体が消滅したりすれば、パフォーマーは『ヒサノモトヒロ』という存在を、一つのアイデンティティと共に失う。

アカウントに命があると考えると、これは『ヒサノモトヒロ』の死を意味するともいえる。

言わばプラットフォームは脆弱な自然の様なものであり、大いなる力の前では、所詮ひとつのアカウントが太刀打ちする事は不可能だ。

最後の最後で、ひどく凡庸なことを言ってしまい申し訳ないが、これはもう仕方のない話だと思う。
15日間の成果がそれかと言われれば耳が痛いが、結果的に凡庸な答えに辿り着く事は多くあるだろうから、そこはなんとかご容赦願いたい。

しかし逆説的に考えれば、アカウントやSNSなんてものはその程度のものでしかないともいえる。

パフォーマーが15日間SNSに自らを晒し、結局たどり着いたのは、『SNSなんてそんなもん』だという事だった。

SNSに人生が左右される必要なんてないし、ましてやSNSが人生の全てになんてなり得ない。
現状はSNSに生かされているパフォーマーも、SNSを介さずに生活出来る様になる為に道を模索しているところを鑑みれば、SNSは手段でしかない。

結局SNSは使い方次第だし、少なくとも『ヒサノモトヒロ』が比較的上手く使えているアカウントだった事は証明された気がする。

しかしながら『ヒサノモトヒロ』がパフォーマーであるとは言えないし、パフォーマーは『ヒサノモトヒロ』が全てではない。

では、みなさんが15日間見ていたものは『ヒサノモトヒロ』なのだろうか?
それとも、"パフォーマー"本人なのだろうか?


最後に


ここに書かせていただいた内容についてだが、別に法整備をしたいだとか、SNSのルールを変えたいだとか、所謂"だからどうしろ"という話ではない。

ましてや「SNSはこう使うべきだ」というような説教じみた事や、「こう考えればSNSは君を生かしてくれる」などといった自己啓発めいた事を言うつもりは全くない。

あくまでこの15日間でパフォーマーが経験した"ただそうであった"という事象に過ぎず、そこにあるのは善悪ではない。

そもそも私は、この展示を通して別段SNSやネット社会のあり方の善悪を問いたい訳でも、構造を変えたいわけでもない。
単に先述のような興味から社会実験をしたいという欲求があり、その実証が欲しかっただけである。

また、SNSにおけるコンテンツの本質とは何なのか。それを知りたかった。

結果的には、分かりきっていたことをほとんどそのまま経験したことで、それを高い解像度で理解するに至るにとどまったが、SNSとはやはりこういう物なんだなという理解は深まった様に思う。

後悔は特にないが、強いて言うなら炎上はしたかった。
炎上をしたことがない身としては、炎上するとどうなるのか知りたかった。
そこだけが悔やまれる。

しかし少なくとも、SNSは『ヒサノモトヒロ』を生かした。今のところは。


謝辞


最後になりましたが、15日間パフォーマーを生かしていただいた参加者の皆様と、ご覧いただいた視聴者の皆様に、多大なる感謝を申し上げます。

『ヒサノモトヒロ』というアカウントは、こんなにもたくさんの人に目をかけていただいているのだなと感激しました。

まさかこんなに生活水準が上がるなんて想像もしませんでした。本当に感謝してもしきれません。

本当にありがとうございました。

ヒサノモトヒロ

個展中の生配信の全アーカイブはこちらから


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?