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私が恋愛小説を書いた理由

なぜ憲法映画の後に、恋愛小説なのか?
その理由を言い訳にならないように書くのは難しい。
いや、何を言っても言い訳と取られてしまうかもしれない。
創作者は本来、発表した作品のみで勝負すべきなので、これから書くことは
人に伝えるためというよりも、自分自身を振り返るものになるだろう。

アマチュアリズムが、アイデンティティー

 映画監督の仕事を始めて25年が過ぎた。
 その間に3本の劇映画と2本のドキュメンタリーをつくったが、それらはどれも「プロの仕事」というよりも、「アマチュアの仕事」だった。
 作品を世に発表し、お金を払わせ観て頂いてきたものを「アマチュアの仕事」と言うのは、お客さまに対してたいへん失礼なことかもしれない。
 50歳から始めた私の映画づくりは、いつもその時どき、今を生きている「自分の興味」を優先して、一人で企画と資金調達をして制作し、発表してきたのだった。
 例えばこれまでの5本の映画は、「夫婦愛」→「認知症の介護」→「芸術家の母の生涯」→「フェミニズム」→「憲法」と、そのテーマを一作ごとに変えてきた。
 なかでも認知症の介護問題を扱った『折り梅』は、幸い時代とマッチして100万人もの観客を獲得することができた。もしプロであったら、もう何本か認知症や介護を題材にした作品をつくっていただろう。だが私はそれをしなかった。
 そんな風に、私の映画の作り方は、いつもプロと言えないものだったのに、一本もお蔵にならず世に送り出すことができたのだから、よほど幸運な星のもとに生まれてきたのだろう。
 そして不遜な言い方をすれば、狭い範囲であれ、観客の共感を得ることができたのは、私の作品のアマチュア性にあったからではないか、とも思っている。
 私はこれまでの人生なかで、職業や社会的地位、名誉、経済的な安定といったものに、まるで興味を持たずに生きてきた。ただ自分の考えたこと、創ったものに、少ない数でも共感してくれる人たちがいてくれれば、それで十分幸せなのだった。
 つまり「売れる」という目的に縛られず、「個人の興味」で作品を生み出してきたその「アマチュアリズム」こそ、私の作り手としての「アイデンティティー」だったのだ。

常に、どこにも属さない「異邦人」として

 社会に出るまでの人生の目的は、たったひとつ、「良き妻、良き母」になることだった。
 若い頃は目指す職業もなかったので、大学を卒業するとすぐに結婚をした。
 それから10年、「妻」でいた間は仕事を持たない夫との生活を維持するために、たまたま目の前にあったフリーライターの仕事についたに過ぎない。
 そして33歳のとき、夫との離婚れを決意すると、今度は子どもと二人生き延びるために転職して、俳優のマネージャーになった。
 やがていつの間にか、自分は「仕事に生きる人間」だと思うようになり、39歳のとき、TVドラマの制作会社を立ち上げてプロデューサーの仕事を始めた。
 そしてその頃から、少しずつ「創るよろこび」や「表現するよろこび」を知るようになっていく。
 ほぼ10年ごとに職業を変えながら、50の歳を迎え、映画監督の仕事にたどり着くと、「家族と生きる」という若い日の夢ははるか遠い彼方のものになっていて、代わりに、「精神の自立」と「自由」に人生の価値を置く人間になっていた。
 そして、ずっと転職を繰り返してきたせいなのか、私は、自分が身を置いたどの世界にも上手く参入することができなかった。いつも、どこにいても「異邦人」だったのだ。
 いつの間にか「どこにも属さない」が習い性になっていき、気がつくと、「何者でもない自由な私」を追い求める人になっていて、「業界」で孤立する寂しさを埋めるように、観客のなかに自分の居場所を見つけていったのだった。  
 そして70歳を迎えた私の手のなかには、『ユキエ』『折り梅』『レオニー』『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』と5本の映画が、70年の生の証しとして残っていたのだった。

頓挫した企画

 あのまま映画を作り続けていられたらどんなによかっただろう。
 『不思議なクニの憲法』の上映会もめっきり減ってきた2019年。私は2本のドキュメンタリーの延長線上にあるような、社会派的、あるいは政治的なドキュメンタリーを作りたいと思っていた。その企画を実現させれば、人びとの薄れかけていた憲法映画への関心をもう一度取り戻せるかもしれないと。
 東京新聞の女性記者・望月衣塑子さんと、レイプ被害に遭った伊藤詩織さんという、どんな党派にも属さない若い二人の女性が「素手で権力と闘う姿」を追いながら、今の日本社会に何が必要かを問う、ドキュメンタリーをと考えていたのだ。
 最初は企画に賛同し、私との仕事に意欲を見せてくれた二人と出会って、生き生きと準備にあたっていた。
「死んだ母が、『ユキエ』や『折り梅』の大フアンだったんですよ。きっと天国の母が、引き逢わせてくれたんですね」と目を輝かせて語る望月記者の言葉が、眩しく、嬉しかった。
 ところがある日、その望月さんから電話が入り、突然「今回の仕事を白紙に戻してもらえないか」と言ってきたのだった。
 理由は、当時もう一作準備が進んでいた劇映画『新聞記者』のプロデューサーから、「松井さんの企画は断って欲しい」と、強い要請があったからだという。 
 それは映画界で辣腕と言われるプロデューサーが、望月衣塑子という時代のアイコンを独占するために他ならず、私から見ればどう考えても不当な要求と思えた。
 また、望月さん本人が「どちらの映画も作って欲しい」と言えば、彼女の意思は誰にも止めることはできない筈のものだった。しかし彼女は、
「ごめんなさい。彼の映画制作のモチベーションが下がるのが怖いので」と、最後まで私の説得に応じようとしなかった。
 彼女とのそんなやりとりのなか、「権力と素手で闘っている女性」というのは、自分の勝手な思い込みに過ぎなかったとわかると、自分の仕事への意欲も、一気に冷めていくのだった。
 そんなときは、いつも「何者でもない自由な私」に戻りたくなってしまう。
 結局、5本もの映画をつくりながら、映画業界に上手く参入できなかった私は、『何を怖れる』をつくった後もフェミニストたちの仲間入りをすることができず、『不思議なクニの憲法』で出会った運動系の人びとの一員になることもできず、どこに身を置いていても「異邦人」の自分を感じては、「何者でもない自由な私」に戻っていくのだった。

この私に小説なんて書けるの?

 望月さんたちの企画が頓挫した後は、ひどく落ち込んでいた。
 メジャーな映画プロデューサーから排除されるのは当然だったとしても、自分と同じ側にいると思っていた女性たちから、切られたことがショックだった。
 失望のなかにいたとき、社会学者の上野千鶴子さんと、メールのやりとりをする機会があった。
「最後に映画をつくるなら、恋愛映画かな」と冗談のように言ったのも、もう社会派的なテーマは終わりにしたい、そんな人たちが蠢く場から少しでも離れて、もう一度女性の生き方を描く、一表現者に戻りたいとの思いがあったからだろう。
 そのとき、何も事情を知らない上野さんから、
「あなた、またお金集めで苦労するの?それより小説を書いてみたら?小説は個人プレイ、お金がなくてもできますよ」と、返信があったのだ。
 そんな彼女の言葉は、明日から何もすることがなくなってしまった私にとって、何よりの励ましに思えた。

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