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日本語と中国語で意味の異なる漢字のヴォキャブラリー(その一)

中国語と日本語で、異なった漢字を使う表現、或いは同じ漢字なのだけれども、意味の異なる表現をピックアップしてみました。何故こんなことになったのか考えるのも一興です。

風流

日本語で"風流"というと、"雅やかである"とか、"上品である"とか、プラスイメージで使われることが普通です。
しかし、中国語になるとそういった良い感触の意味だけではなく、"色事に長けている"とか、もっと直接的に"スケベだ"とかいうマイナスイメージの場合も少なくないそうです。ですので、中国語で"風流"という言葉は褒め言葉としては成立しないでしょう。日本語とは全く別の意味にとられることもある危険な言葉です。気をつけなければなりません。

可憐

この"可憐"という言葉も日本語と中国語では大きな意味のズレがあります。
日本語では、"可憐"というと"可愛らしい"とか"いじらしい"とかいう、けなげな感じをほめそやする言葉と感じられます。
これが中国語の"可憐"は全く違う意味になってしまいます。"可哀想"です。日本語のような女性とか子供を可憐だという言い方とは、全く違う意味になってしまいます。

漢字の読みのそのままだと、"憐れむべきもの"ですから、原意は"可哀想"のようです。日本では、可哀想なもの、憐れなものを愛でるという心情的傾向があるので、日本語における意味が付加されたのでしょう。

怪我

日本語の場合、これは"けが"と読みます。怪我をする。身体に傷をおうということですね。これは、しかし漢字の意味と、熟語の意味が大きく乖離しています。
中国語の場合、これは"私のことをおかしく思う"あるいは"私のことを疑う"という意味です。これですと、漢字の組み合わせは、私を目的語にして怪しむということなのですから、熟語の意味は漢字からの類推と一致します。

これは、日本語における使われ方がとてもイレギュラーでおかしいように感じます。この読み方は日本語の"穢れる"から来ているそうです。この"ケガ"と言う発音に、無理やり怪我という漢字を当てたようですね。

百姓

日本語の“百姓"は、"農業に従事する人"の意味になります。日本語だけ読んでいると、そういうものかなと思うのですが、中国語の意味は全く異なります。
中国語の"百姓"は、言葉の通り"百の姓"、たくさんの姓を意味しており、天下の人々、民衆と言った意味になります。

日本語では、何故"農民"に限ることになってしまったのか、それには何らかの理由と経過がありそうですが、まだ勉強できていません。

經理/経理

これは、中国語圏の仕事をしている人は良くご存知ですね。
日本語の経理が、もっぱら財務関係の担当者をしますのに対し、中国語の經理は、ほぼ英語のマネージャーに該当します。財務に関わらずプロジェクトのリーダー格の人は經理と呼ばれます。
副理:Sub Manager
資深經理:Senior Manager
などと訳せば、漢字と外来語の対応はとてもスムーズです。

大丈夫

日本語の"大丈夫"は、"大丈夫だ"という形容動詞として用いられます。大体において、問題ないよ、OKですという意味です。
しかし、中国語では"丈夫"が"旦那さん"、""の意味になり、"体の大きな夫"の意味になってしまいます。
そう言えば、日本語の"丈夫"も中国語の"丈夫"とは全く異なりますね。日本語のこの意味のズレはどこから来たのでしょう?

日本語の""は、"女の子供"の意味ですね。"男の子"の場合"息子"。発音はむすめとむすこで、対応しています。むすというのは古い言葉で生まれ出るという意味になるので、生まれてきた女の子と男の子が原意なのでしょう。

しかし、この漢字の中国語での使われ方は"母親"の意味になります。現代語では"母親"とか"媽媽"とか使われることが多いので、少し古いニュアンスの言葉です。

意思

日本語の"意思がある"と言う表現は、"その様な行動を起こす希望がある"。"自ら進んで行うつもりがある"。その様な意味合いになります。英語で言うと"will"でしょうか。

これが中国で"有意思"と書いた場合には、"面白い"とか、"興味を惹かれる"と言う意味になります。英語で言うと"interest"でしょうか。

趣味

日本語の趣味は、"ホビー"の意味の名詞ですね。どんな趣味をお持ちですかと、通常の話題作りに用いられます。

中国語でどんな趣味がありますと聞く場合には、"你有什麼愛好"とか、"你有什麼喜好"。或いは"你假日通常做什麼"などと言い、趣味と言う中国語はあまり使いません。
一方、台湾語では"真有趣味"と言う使い方で、"面白い"とか"興趣がある"と言う意味になります。中国語では"趣味"と言う言い方はしませんね。

是非

日本語の"是非"は、副詞として強調のニュアンスを加えます。なんとしてもとか、どんな困難があってもとか言うニュアンスの副詞としての用法です。
また、"ことの是非を問う"と使うと、名詞用法で、ある物事が"そうであるのかそうでないのか"、或いは"正しいかのかそれとも間違っているのか"を尋ねることになります。

中国語では、上記の後者の意味はありますが、副詞的用法はありません。正しいのか間違っているのかと言う意味と、口論になると言う意味もあるようです。

こう見てくると、中国語の語義と漢字の関係は比較的順当なのですが、日本語の場合に意味の変容が起こっているように感じられますね。細かく語源を調べれば言葉の意味の変遷が詳しく分かるのでしょう。

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