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川と独房、記憶と比喩

ヤンデルさん、


僕はいま「本を売る人」ではなくなってしまいました。

前回のお手紙にあった引用に、
「思考というのは順調な時にははじまらず、何かに衝突したときにはじまるものである」
「人は何か困難に衝突すると、それをどう解釈してどう乗り切るかと思考を始める」
という言葉がありましたけれど、はっきり申し上げるといまは思考停止の状態に近い。またその状態もイヤで、考えようとするけれど、どこへも行き着いていません。ぐるぐる回って元の位置に戻る、というより、ぐるぐる空回りな自転をして位置が変わっていない、そんな状態。だからかもさんがよく云っているように、とりあえず手を動かしてみます。

本が売れなくなった(これだとよくいわれる活字離れがどうしただのの陳腐なお嘆きみたいだ。本を売れなくなった、です)。僕にとって本は生活必需品、というか生活が破綻しても必要なもの、生かされてきたものでもあります。なので本屋もいわばライフラインです。本の供給が断たれると、どうも心穏やかではおれません。
もちろんそれは僕だけではないことを、僕はもう知っています。

(そういえば、「自分だけが」という考えから「だけじゃない」と思い直すとき、浮かぶ光景があります。
中学生の頃、「何を読んでるの?」と訊かれ、おずおずと、どうせ云ったって知られてなければ「ふーん」で終わってしまう会話だなと思いながら、「…星新一」なんて(いま思えば超メジャーな小説家の名前を)つぶやいた愚かな僕に新潮文庫の淡い黄緑色の背表紙を持つタイトルをつらつらと暗唱しはじめた(のちに友だちになった)ひとです。
「自分だけが」と思うとき、彼は半笑いでいまの僕をじっと眺めています。僕の肩を両手で揺さぶりにきます)

多くのひとが本を糧に滋養に、ときに微笑の表情が浮かぶくらいにほのぼのと、ときに眉間のシワが浮かぶくらいに思いつめて、本を欲求しています。
そういう、本を糧や滋養にしているひとに本を届けられない。
おもったい膜に身体を包まれて、遮られてる感じ。どよんとしてしまいます。
はじめ、半ば身体を左右に切り離されたような、という慣用句を使いかけて、いや、これは言い過ぎだなって思いました。
(比喩をかさねます)
いままで八畳の部屋に住んでたのが四畳半になったような感じ。…うーん。とはいえ狭い部屋も、正直云えば嫌いじゃないのです。

じかに本を売れない、というのは、じかに人に会えない、というのと似ていて、オンラインで代用できるところもあるっちゃあります。
ただ、そこでは取りこぼされる、なんというか、感覚、雰囲気、匂い、揺らぎ、ナマ感みたいなのもあります。
そこが途絶えている。

けれど、そのへん僕はわりと大丈夫なところもある。孤独の耐性というか。狭い部屋、断絶された場所、独房。嫌いじゃない。独房はまだ入ったことないですけれど。ただ僕が敬愛してる作家のひとりに埴谷雄高という人がいて、独房でずっとカントとかを読み耽ってた。えんえんと思考の深淵を潜り続けていた(『死霊』埴谷雄高(講談社文芸文庫)全3巻(未完)という小説は超絶面白いですよ)。そういう憧憬はあります。

僕が若い頃、ひきこもりという言葉はなかったけれど、たぶんそういう状態に近い過ごしかたはしていたような気がします。
もちろん一歩も外へ出ず、というのは2〜3日で、晴れた日には公園や川べりに本を一冊持って出かける。日が暮れるまで缶コーヒーを飲みながら、ずっと本を読んでいる。そんな生態。たぶん半年くらい。

そして先日、20年ぶりぐらいに川に行ってきました。同じことをしてきました。
ひさびさの川はなにも変わっていなくて、ただただ風景のなかに自分を沈めてきました。けれどよくよく考えると、川に行きたかったよりも、たぶん本を読んでいた場所にちょっと戻りたかったのかもしれない。

ちょっとずれました。
ナマ感との対置でオンラインを持ってこようとして、記憶に走りました。


本を売っていた場所があった。
これはもう確かにそうだったので、いま、売れなくても、このあと売れなくなっても、受け入れる気がする。
本屋があった。
ここにある本は、あの本屋で買った。(と、記憶される)
それでいいような気がする。

変化の前兆として、ずれや相反する気持ちを伴いながら、記憶をなぞっています。


最初の引用された言葉に戻ると、僕は「困難に衝突」していないのかもしれません。

うーん…ヤンデルさんのいう「思考が衝突」は、してるのでしょうか……。

衝突……どちらかといえば受け入れたり受け流したりが多い気がします。あるいは打たれ弱すぎて大事な部分がすでに欠落しすぎてます。

今回、諸々整理のついてない内省的な文になってしまいました。すみません。いまの変化もしくは衝突がなにをもたらすかはわからないけれど、きっと僕はまた本を売りたくなるだろうなあ、とは思っています。


さて最後におすすめしたい本を。
『思考の取引 書物と書店と』ジャン=リュック・ナンシー(岩波書店/ISBN9784000259903)です。ヤンデルさんが敬愛する千葉雅也さんの推薦帯が著者名より目立っているパターンの新刊、『積読こそが完全な読書術である』永田希(イースト・プレス/ISBN9784781618647)という本に出てきました。これはフランスの書店が出した冊子かなにかに寄稿されたものらしくて、とにかく本屋を褒めてる。
書店は、書物が「我在り」と宣言して「我思う」とまで云っちゃうイデアである、とか、書物は出版社から書店に送り出されたときからすでに開かれていて、書店主は超越論的な読者なのだ、とか。
読んでて、とてもいい気持ちになりながら、フランスの哲学者は面白いなぁとちょっと元気になりました。


さてさらに。
ほんとうは今回、燃え殻さんに選書してもらった【燃え殻書房】のお話をしようと思ってたのですけれど、次にします。次のとき、お店も僕自身もどうなってるかはわからないですけれど。フフ。



(2020.05.03 前田→ヤンデルさん)



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