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マクドナルド化する学校

マクドナルドに行ったことのない読者は、おそらくいないだろう。月に一、二回は食べるという方さえいらっしゃるかもしれない。それほどマクドナルドは今日、僕らの生活に密着したファーストフード店になっていることは間違いない。少し遠回りになるが、ここではまず、マクドナルドに代表されるファーストフード店の構造について考えてみる。

夏休み中のある日、同僚と二人で、昼休みにマクドナルドに行こうと考えたとしよう。店をちょっと覗いてみると、カウンターには十人ちょっとの行列。うん、これならそれほど時間はかからない。一時には学校に戻れそうだ。よし!昼食はマック(関西はマクドですね・笑)にしよう!こう発想することになる。

しかし、これがロイヤルホストやびっくりドンキーならどうだろうか。店に入った瞬間に目に飛び込んでくる十人以上の行列……。その時点で、こんなに待つのはいやだな、他をあたろうか……そう考えて、店をあとにするのではないだろうか。

さて、話をマクドナルドに戻そう。列に並ぶとほどなく自分の順番。このセットでドリンクはホットコーヒー、ポテトはM、というふうにすぐに決まる。数百円を支払い、トレイにすべてが並んだところで席へ。いつもの味、いつもの量で、ちょっとだけおしゃべりに花を咲かすとごちそうさま。カラになったカップやハンバーガーの包み紙をくずかごへ、トレイを所定の場所に片付けて……。さて、お腹もふくらんだし、仕事に戻るか……となる。

しかし、ここで考えてみよう。もしもこれがロイヤルホストやびっくりドンキーだったら、と。ウェイターさんやウェイトレスさんに「お客様、商品をご自身でお席までお運びください」と言われたら、納得できるだろうか?「コーヒーカップや手ふきのペーパーを自分で所定のくずかごに分別して捨ててからお帰りください」と言われたらどう感じるだろうか。怒り出さないだろうか。ロイヤルホストやびっくりドンキーならば、どれもこれもウェイターさんやウェイトレスさんがしてくれることを、マクドナルドで僕らは何の疑問も抱かずに自分でやってしまっているのである。ついでに言うなら、実はマクドナルドでは椅子を硬い素材でつくり、長く座っていることができないようにして客の回転をよくする、という工夫がなされているそうだ。更に言うなら店が混んでくると、客が会話しづらいようにBGMのボリュームを上げるということもマニュアル化されているとも聞く。しかし、僕らは一般的に、そんなことにはまったく気づかずに楽しく食事をし、満足してマクドナルドをあとにしている。これはいったいどうしたことか。

このように、顧客に嫌な思いや疑問を抱かせることなく、本来サービスを提供する側がすべき労働を顧客の側に分担させたり、対立や障壁を避けながら目的を達成したり、徹底した効率化によって全国どこでも均一化したサービスを提供したりする社会の傾向を、ジョージ・リッツァは〈マクドナルド化〉と呼んだ。

こうした〈マクドナルド化〉の原理は、昨今、学校教育にも意識的・無意識的に導入されている。例えば、みなさんは休み時間にニコニコしながら、或いは生徒たちと半分遊びのような会話を楽しみながら廊下巡視をしてはいないだろうか。しかもそれは、生徒指導部や学年の方針として、「いかにも監視という雰囲気の巡視は避ける」というように取り決められた結果として行われてはいないだろうか。僕は一九六六年生まれなのだが、私の中学時代は校内暴力の真っ只中で、廊下には必ずと言ってよいほど竹刀をもった生徒指導の先生がいたものだった。何か悪いことをしたときにも自分の話などはほとんど聞いてもらえずにとにかく怒鳴られる……そういう指導を受けてきたものである。実はこのことは、僕らの受けてきた教育からいま僕らが行っているような教育へと、時代が教育の在り方をシフトさせてきたことを示している。つまり、「中学生らしい生活態度」や「あるべき学生の姿」のような理念を前面に押し出しながら、「そうあるべきだ」と押しつける指導から、生徒たちに嫌な思いや疑問を抱かすことなく、周りに迷惑をかけたり周りから非難されるような生活態度を改めさせていく指導へというシフトである。教師の指導姿勢として考えれば、要するに「これが正しい」というメッセージをひたすら投げかける指導姿勢から、マクドナルドのようにそうとは気づかせないままに目的を達成する指導姿勢へと変化していることを示しているわけだ。

また、生徒指導研修会では、いわゆる指導事案のが起こったときにも「カウンセリング・マインド」が奨励され、当該生徒によく事情を聞き、生徒の立場を理解したうえで説諭するように、といったことが基本方針として示されてはいないだろうか。実はこれも〈マクドナルド化〉の一種である。「カウンセリング・マインド」は一般に「共感的理解」とも呼ばれるが、いくら共感的に接したとしても、最終的な落としどころはもともと決まっているのある。上からガン!と指導するのではなく、生徒の立場に寄り添い、待つ姿勢を旨に過程を重視しながら教師の想定する学校や社会との調和に少しずつ近づけていく、そういう指導・援助の在り方に過ぎない。要するに予定調和だ。ためしに「僕はどうしても人を殺したいんです」と言った生徒と相談活動をすることを考えてみると良い。だれもが「きみの気持ちはわかるよ」とは言えないはずだ。誤解を怖れずに言えば、「カウンセリング・マインド」とは、生徒たちに共感的な姿勢を示しながら予定調和に誘っていく営みのことなのである。

マクドナルドが顧客にネガティヴな感情を抱かせずに目的を達成するタイプのサービスにシフトさせたように、学校教育もまた多くの場面で、生徒にネガティヴな感情を抱かせずに指導目的を達成するタイプの手法が奨励されるようになってきている。この三十年の教育改革の動向は、学校教育の〈マクドナルド化〉へのシフトであったという側面があるのだ。

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