見出し画像

協働とは一体感と引き際でできている

一 誇りと責任

六年振りに高村克徳くん、齋藤大くんと呑んだ。高村くんと齋藤くんというのは、かつて僕の学年に所属していた若者たちである。僕が初めて学年主任を務めた学年だ。転勤して一年目のことでもあった。上篠路(かみしのろ)中学校でのことである。しかも彼らは二人とも初めて教職に就いた年だった。四月に出会ったときは、高村くんが二三歳、齋藤くんが二二歳だったはずだ。僕は学年主任というものに試行錯誤し、この二人は教職というものに試行錯誤し、そんな出会いだったように思う。彼らと一緒に満足の行く学年運営をし、僕は四年後にこの学校を去った。その後、彼らとの試行錯誤のやりとりをもとに、『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)、『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)を書いた。この三冊は、その後の僕の人生を変えた三冊だ。変えたというよりも、いろいろな意味で、僕のその後を決めた三冊と言った方が良いかもしれない。たぶんこの三冊がなかったらいまの僕はないし、高村くんと齋藤くんの二人がいなかったらこの三冊はなかった。

それから十年の時が過ぎた。彼らも現在は三四歳と三三歳である。二人ともいまは転勤して、二校目に勤めている。二人ともまだ初めての転勤から間がない。齋藤くんは二年目、高村君は一年目だ。二人とも上篠路にとても長くいた。齋藤くんが九年、高村くんはなんと十年である。この間、齋藤くんは二度卒業生を見送り、高村君は三度卒業生を送り出し、最後の年には学年主任まで務めたと言う。二人ともいまは居心地の良かった上篠路を離れて、学校による仕事の作法の違いに戸惑っているふうだった。「あんなに結束してチームで動くというのは決して普通ではなかったんですね……」と二人は口をそろえた。上篠路時代のようにみんなで一緒に動きさえすれば、見違えるように良い方向に進むのに……と感じるような局面を、二人とも新しい勤務校で幾度か目にしたと言う。歯がゆい、とも言う。多かれ少なかれ、初めての転勤というものは一般的にもそういうものだが、この二人は新採用の学校に少し長くいすぎたかもしれない。

ただし、彼らの新しい勤務校でのエピソード一つひとつについて語られる彼らの分析が、僕としてはすべてに納得が行くものだったことも確かだ。七時間ほど一緒に呑んだのだが、そこで語られる彼らの話には僕にも違和感というものが一切ない。ああ、やはりこの二人は自分のDNAを引き継いでいるのだなあ……と大きな感慨を抱いた。彼らは、少なくとも僕の価値観にもとづいて言えば、「素晴らしい教員」に成長していた。それはごくごく簡単に言うなら、自分の頭で考え、自分で判断しながら、自分で責任を取ろうとする教員になっていたということである。

それは嬉しいことでもあるけれど、おそらくはひどく怖いことでもある。要するに、僕の学年経営が彼らのなかにある種の刷り込みとして機能してしまっているということなのだ。僕がその旨を語り、もしかしたら教員生活のスタートを僕と一緒に始めたことによって、しなくても良い苦労をしている面があるのかもしれないよと言うと、彼らは口をそろえて「いえいえ、堀先生と一緒にやれて良かったですよ」と言った。でも、彼らのスタートに僕がいなかったパラレルワールドを彼らが経験することはもう不可能なのだ。タラレバを語っても仕方ないけれど、僕と出会わなかった彼らの教員人生がどのように展開したかなどということは、いくら想像してみたところで絶対にわからない。そして、そのパラレルワールドには確かに良くない面もあったかもしれないが、良い面だって間違いなくあったはずなのである。ただ、それがなんなのかは、彼らにも僕にも生涯わからないというだけのことだ。僕は彼らと話しながら、人生の一回性ということに思いを馳せていた。他人に影響を与えるということの、ちょっとくすぐったく誇らしい感じと、もう二度と取り戻せない時間に対する大きな大きな責任と。

二 子ども集団と教師集団

これが教え子なら気が楽だ。僕という教師に一年や二年担任をもたれたからと言って、それで人生に影響を与えるような大きなことにはならない。教科の学習で教えるべきことを教えなかったということになれば大問題だが、次の年には別の教師に担任され、そのまた次の年には更に別の教師に担任され、担任教師はその良さも悪さも結果的には相対化されていく。子どもたちの多くは柔軟だ。少しくらい学級運営や学年運営のシステムが変わったところで、数ヶ月もすれば新しいシステムに対応できるようになる。小学校高学年くらいになれば、毎年がその繰り返しであることも理解している。

でも、新採用の教師は違う。教師になった最初の一年にだれと出会ったかが、実は四十年近く続いていく教師生活の作法として定着してしまう。それが基準となってしまう。その重大性を多くの教師が意識していないだけだ。しかも、二十歳を超えると、もう子どものように柔軟ではない。仕事の作法をその場に応じて臨機応変に変えていくということが驚くほどにできなくなる。僕だってこの年になっても、いまだに、新卒時代に僕を可愛がってくれた学年主任や生徒指導担当の先生方の影響を大きく感じることがある。そういうものなのだ。

「学年づくり」と聞いたとき、多くの読者は学年の子ども集団をどう育てるかということをイメージするだろうと思う。でも、それは奢りだ。例えば学年主任(或いは学年主任が頼りにならないと感じている副主任でも良いし、学年主任・副主任にビジョンがないから自分が頑張らねばと感じている中堅・若手でもいい)が一人で理想の学年集団像を描いて、子どもたちをその理想像に近づけようなんてしても機能するわけがない。そこには何人もの教師が関わっていて、そのそれぞれがそれぞれのキャラクター、それぞれの感性で子どもたちに接するのである。一人の理念が一直線に機能するわけがないのだ。

良い学年集団(子ども集団)をつくろうとしたら、良い学年教師集団をつくって、一人ひとりの教師の良さが十全に活きるような環境をつくること以上に機能する手立てなどないのである。そうした学年教師集団運営のなかで経験のない者は成長し、経験のある者は持てる力を活かす。若者は力量がないことをネガティヴに捉えずに、大威張りで成長する機会を保障される。中堅・ベテランは自分のアイディアを次々に提出して、学年を挙げてそれを実現していく。そういう学年教師の雰囲気を肌で感じる子どもたちこそが最も成長の機会を得ることができるのだ。次々に自分のアイディアを楽しそうに実現していく教師たち、自分たちから見てもどんどん成長していくことがわかる若い教師たち、そういう大人たちを間近に見ながら過ごす子どもたちが成長しないなどということはあり得ないのだ。学年づくりとはそういう機能をもつものなのだ。

しかも、このことは理屈として知っていることに何の意味もない。そうした経験をし、そうした実感を得、そうした高揚感を身をもって味わった者だけがその境地に立つことができるのである。そして図らずも、それを基準に仕事の作法を覚え、そうでない作法の仕事に違和感を抱いてしまうのだ。僕は高村くんと齋藤くんにこの構造を見たわけだ。ちょっとくすぐったく誇らしい感じと、もう二度と取り戻せない時間に対する大きな責任とは、そういう意味だ。

三 一体感と引き際

本書でも何度も述べてきたけれど、中学校は教科担任制である。一つの学級に十人の教師が授業に入る。つまり、担任学級をもっても、自分以外に九人の教師が入るわけだ。中規模から大規模の学校であれば、その多くは同じ学年に所属する教師になる。学年教師団がそれぞれの良さが十全に機能するような学年である場合と、そうでない場合とでは、自分の学級づくりに与える影響も異なってくる。教科で入る先生方が自分の学級に次々と良い影響を与えてくれているのを実感できるようになる。

齋藤大くんは数学教師なのだが、自分のクラスの生徒が「大ちゃんの授業、わかりやすくなったよ」などと嬉しそうに報告してくるのを聴いて、「なに、生意気なこと言ってんだ。生徒の分際で教師の授業を評価するなど十年早い(笑)」などと言い返すのが日常になる。保護者と懇親会で会話をしていると、「高村先生、なんだか風格が出てきましたよね」なんていう声が聞こえてくる。子どもであろうと大人であろうと、人が成長するのを目の当たりにしそれを実感するということはとても嬉しいことなのだ。若者が学年の雰囲気づくりに生きるというのはこういうことなのだろうと思う。ついでに言えば、彼らが入って二年目、僕らは職員体育の野球で札幌市で二位になったことがある。小中あわせて全市二三○校もあるなかでの二位である。僕らが勝ち進むにつれて、部活のない生徒たちまでが観戦のために夕方のグラウンドに集まるようになっていった。ああいう職場の一体感は、やはり経験した者にしかわからない。

学級経営、学級づくりと言うと、なにか学級担任の専権事項のようなイメージがある。しかし、もちろん子どもたちに最も大きな影響力を与え、子どもたちに働きかける機会を最ももつのは学級担任かもしれないが、そうした担任の仕掛けの機能度を高めるのは、子どもたちを取り巻く環境なのである。その環境のなかで最も影響力を発揮するのが子どもたちにとって近しい教師たち、つまり学年の教師集団なのだ。僕が学年づくりで大切にするものとして、学年教師集団を第一義的に挙げるのもこうした意味においてである。

ただし、一つだけ気をつけるべきことがある。そうした一体感のある学年教師集団ができ上がったら、三年から五年でその教師集団を解散することだ。そうしないと、その一体感があまりにも基準となりすぎて、その後が苦しくなっていく。すべての学年教師集団がそのような一体感をもっているわけではない。長く一体感のある場でばかり仕事をしていると、あまりにもその一体感が当然になりすぎ、それ以外の在り方に対して必要以上の違和感を抱いてしまうのだ。いや、違和感程度ならまだいい。目の前で起こるいちいちのことに批判的になってしまい、かえってその組織に悪影響をもたらす存在になってしまうことさえ少なくない。

僕は学年主任がある程度の体制をつくったら、次第にその影響力を意図的に弱めていくのが良いと感じている。学年主任が少しずつ引いていくのだ。学年主任が扇の要となって学年づくりが始まる。それは当然のことだ。しかし、いつまで経ってもその学年主任がいないと学年が運営できないというのでは人は育たない。スタートで扇の要となった人間がいつまでもその立場にいると、その下で働く者は意識的・無意識的にどうしてもその人を頼ってしまうことになる。頼るだけでなく、その人の判断を仰いでしまう。更に言えば、その人がどう考えているのか様子をうかがいながら自分の仕事をしてしまう。扇の要は慣れてくると必ず、無意識に組織を束縛する。それが組織に惰性を生み出す。少しずつ少しずつ、組織のダイナミズムが失われていく。
人は自分の育てた若者をいつまでも手元に置いておきたいと思う。それは人間なら当然の心象である。ツーカーの人間と一緒に仕事をすることほど楽なことはない。しかし、「可愛い子には旅をさせろ」の諺通り、ある程度の力量を身につけた若者は、他の学年集団や他の学校に早く巣立たせてあげるべきなのだ。別の若者を招き入れて再びその成長を楽しみ、子どもたちにも成長する教師の醍醐味を目の当たりにさせればいい。そういう覚悟をもつことが必要なのである。

若者の方も同様である。ツーカーの上司、自分の意見を確実に採り上げてもらえる上司と仕事をするのは楽しく有意義なものだ。しかし、そうした環境におけるキャリアを積み上げれば積み上げるほど、実は自分の仕事の作法は硬直化するのだ。その後、違う組織に移ったときに、自分の提案を採り上げてくれない上司、ツーカーのコミュニケーションを取れない上司に必要以上の不満を抱くことになる。エゴが出やすくなる。これを意識的に避けた方が良い。

僕は若い頃、二・三年専門担任だった。新卒で一年生を担任して後、次に一年生を担任したのは初めて学年主任となった十四年後だった。札幌では、三年生を卒業させると教師集団はその多くが大抵の場合、一年生に下りる。新一学年に旧三学年の仕事の作法が引き継がれる。一学年ニラ下りればまた居心地の良い三年間を過ごせる。僕はそこに参加せず、常に二年生に下りて別の学年集団に所属するということを繰り返してきたわけだ。学年主任によって、或いはその学年主任を中心としたスタッフがつくり上げる雰囲気によって、学年教師集団の仕事の作法というものはかなり異なるものである。若い頃にさまざまな仕事の作法を意識的に経験したことによって、僕が得たものは計り知れない。若い頃に組織の空気の違いを身に沁みて味わったことが、僕にとって大きな宝となっているわけだ。

協働とは、一体感と引き際でできている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?