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すごい人は「すごい人」という生き物であってほしかった

世の中には無数のすごい人たちがいる。

私にできないことができる人はすごいし、多くの人から評価されるような成果をあげている人もすごい。

周りにはすごい人ばかりで、大した能力もなく、誰かに評価されるようなことを成し遂げたこともない私は毎日茨の中で暮らしているようで、どんどん落ち込んでいく。

そもそも「すごい人と比べて落ち込むことが傲慢」という風潮もあるが、それについては今はおいておく。

励ましの言葉として

「すごい人も同じ人間なんだから」

というのをよく聞く。

世間で注目を浴びている人だって生まれたときは何もできない赤ん坊で、家に帰れば風呂も入るしトイレにも行く、飯を食えば美味いと思い、眠りにもつくし病気にもなるし、100年後には灰になっている。

そんな私たちと同じ感情のある人間なんだから、落ち込むことないよ!

という論調である。

しかし、一体この言葉のどこに救いがあるのだろうか。
むしろよりいっそう絶望が深まってしまう。

同じ人間であるはずなのに、一方はクズ、一方は高い能力をもっている。

そっちの方がよっぽどつらい現実ではないだろうか?

鳥は空を飛べる。
でもだからといって「鳥は空を飛べるのに、私ときたら…」と落ち込んだりしない。

それは「鳥と人間は別の生き物」であって「人間が飛べないのは当たり前」だからだ。

すごい人はクズな私と同じ「人間」という生き物だよ、と教えられたところで、何の救いにもなりはしない。
むしろ「同じ人間なのにどうして私はこんなに能力が低いのだろう」とよりいっそう絶望感が高まってしまう。

すごい人は「すごい人」という、人間ではない別の生き物なのだと言われた方がよっぽどいい。

すごい人は寝ないしトイレにも行かないし、病気もせず100年たっても死なないし、飯を美味いと思ったり、映画を見て楽しいと思ったりすることもない。
そんな「人間」とは違う「すごい人」という生き物なのだ、だから私は彼らと比べて能力が低くても問題ないのだ、と。

でも現実はやっぱりすごい人も私も同じ人間で、すごい人は「人間」というポテンシャルから「努力」や「能力」によって高いところまでのぼりつめたのだ。

同じポテンシャルをもっていたはずの私が毎日茨の中で暮らさなければならない理由は「私の努力不足」「私の能力不足」「私の実力不足」、つまり「私が悪い」のだということを嫌というほど突き付けられる。

毎日がつらくて苦しくてどうしようもないのも、明日なんて来なければいいのにと思うのも、常に死に方を考えているのも、全部何もかも「私が悪い」。

世界は不平等でもなんでもなくて、「相応の努力をしてすごい人になった人間」には良い面が、「努力もせずクズに甘んじている人間」には悪い面が与えられるというだけだ。

ただそれだけのこと。
きわめて平等。
残酷なまでの実力主義。

なんだか生きることに疲れたよ。

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