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死に惹かれ、死の匂いに戦慄する

 死を感じる場所に昔から心を惹かれてきた。たとえば霊安室、たとえば火葬場、たとえば刑場。死と密接に絡み合うそれらの場所は、想像力の格好の的だった。煌々と明かりの灯る深夜の病院を見上げて、平時であれば立ち入ることのない禁忌の場所を思った。

 反面、死の匂いのする景色を見ることはひどく恐かった。斎場から出発する霊柩車。遺影を持った親族のなす列が送迎のバスに吸い込まれていく。確かに人の重さを感じる白い棺。それは本物の、生々しく濃厚な、物語性のある具体的な死。そんな死の匂いを嗅ぎつけると、目に映る色も、聞こえる音も、五感で感じられる何もかもが嘘になったかのような虚無感を覚える。

 心惹かれてきたのは結局、死のもつ神秘性であって、死そのものではない。生きている者の誰一人経験したことがない死に一番近いその場所で、死にまつわる一連の過程に触れることは、解き明かせない謎の一部を垣間見ようとする探求心を刺激する。ただそれだけのことだ。
 現実は、単なる濃厚な死の匂いが充満しているだけだというのに。

 桜の見える公園に隣接して病院が建っている。
 レジャーシートを広げてサンドイッチを食べる人。昼間から酒を飲む人。サッカーをして遊ぶ子供と見守る親。昼寝をする人。
 思い思いの時を過ごす人々の頭上を彩る桜の花、雪が解け春の訪れを象徴するその花を真近で見ることができる位置に、病室の窓が並んでいる。

 窓の内と外で流れる時間はいかほど違うだろう。
 仰々しい機械とコードで繋がれないと生きられない身体、そのか弱い呼吸が今この瞬間、目の前で止まってしまうかもしれないという恐怖。一秒、また一秒と、死の宣告が近づいてくる。気まぐれに、だけど確実に。窓の外の麗らかさとは裏腹に長い冬は明けることがなく、凍てついた心が癒えることもない。

 正反対の二つの時が窓を隔てて隣り合う空間を、のどかな春の昼下がり、ひどく神秘的な心地で歩いた。

 公園の敷地内にひっそりと佇む墓地がある。雲一つない晴天のキャンバスに桜吹雪が淡い軌跡を描く中、袈裟をまとった僧侶の読経が朗々と響き渡る。背後では皺一つない黒服をまとった親子が俯いて祈りを捧げていた。

 今の今まで死の儀式の渦中にいたことを物語るように、彼らの周りに充満する死の匂いはめまいがするほど濃かった。

 やっぱり止めてと叫びたくとも炉に滑りゆく棺は止まることはないあの場所で、何十年分もの生きてきた証を刻んだ身体がほんの一時間かそこらで灰になってしまう空虚な時間を過ごし、箸で持ち上げた骨にまだ残っていた熱気を生涯忘れることはないだろう。時が戻ればと意味のない仮定を何度繰り広げたかわからない。彼らの背中が、死にまつわる彼らの現実を、たった今くぐり抜けてきたばかりの現実を、これ以上ないほど生々しく突きつけていた。

 読経はまだ止まない。淡々と、一定の調子を保ってただひたすらに唱える。後ろの親子はときおり吹く風に髪を揺らすほかは、身じろぎ一つすることもなく祈りを捧げ続けている。

 傍らを通り過ぎる。それでも彼らは振り向くこともなく、一心不乱に、かたくなに、死の物語の中を終局へと歩んでいた。

 濃厚で濃密な、耐えがたい死の匂いを放つあの日の親子の姿が、いつまでも脳裏に焼き付いて離れない。

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