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「地獄の現場」で父から学んだこと

「好きな季節は?」という定番の話題がある。
人の好みに口を挟むつもりはないが、冬派の「キリっと空気が冷えて澄んだ感じが好き」といった言葉を聞くと毎度、私は思う。

「ああ、この人、冬に外仕事したことないんだろうな…」

「手伝い」と言う強制児童労働

私の両親は看板屋を営んでいた。
高井三兄弟は子ども時代、しょっちゅう手伝いに駆り出された。
自宅1階の「仕事場」で看板を作る作業や、店舗などでの看板取り付けや補修・ペンキ塗りなどの「現場」だ。
手伝いは最優先事項で、学校や部活の重要行事でもなければ拒否権はなかった。父に「日曜、現場な」と言われたら、朝から晩までお仕事。自宅で「ちょっと手伝え」と呼び出されたらすぐ行く。

同級生が楽しく遊んでいる週末に「現場」に行くのは、嫌で嫌でしょうがなかった。
だが、私は確かに、父の働く姿と仕事への姿勢から貴重な何かを学んだ。それは「おカネの教室」という本が生まれた土壌になっている。

スレート屋根の灼熱地獄

今、私はちょっと興奮している。
この原稿のためにGoogleストリートビューを見ていて、これを発見した。

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この看板は四半世紀前に大学生だった私が取り付けたものだ。
これは、お好きな方にはたまらない、ケーターハムスーパーセブンという極めて趣味的な車のロゴだ。

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(タイムズ・カーレンタルのサイトより拝借。時間貸しする時代か…)

ウン百万円するソッチ方面ではない「大人のおもちゃ」で、自分で組み立てる楽しみ方もある。

四半世紀前、名古屋郊外にスーパーセブンを取り扱う代理店ができて、その看板のお仕事が我が家に回ってきた。お店は工場を転用したこんな建物だ。

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屋根に注目。スレート、ですね。
「真夏のスレート屋根の上で働いたことがある人」がどれほどいるかは想像がつかない。オススメはしない。できれば一生避けた方が良い。

上から灼熱の太陽、下から熱気と照り返し。
傾いた屋根の上で、梁から外れないように足を運ぶ。
そんな場所で看板を取り付けるのは、「気温が50度を超えているゲレンデで雪だるまを作る」ような難業だ。

その日は真夏日で、屋根に上った瞬間「これ、フツーに死ぬ」と思った。
汗が滝のように流れ、ズボンもシャツもあっという間にぐしょ濡れになる。
熱中症まっしぐらで、「ヤバい」となったら冷房の利いたトラックに戻り、アクエリアスをラッパ飲みする。
クールダウン終了。作業再開。
熱中症寸前。ピットイン。
この繰り返しで、結局、取り付けに2時間ほどかかった。
発汗と給水の繰り返しで自分が日干しと「戻し」の間を揺蕩うシイタケになったような気分だった。

記憶にある限り、ここが一番「暑い」現場だ。

無間「縦穴掘り」地獄

夏の「現場」で辛かった仕事の1つは穴掘りだ。駐車場などの立て看板の足を埋める穴を掘る作業で、特殊なスコップを使う。

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「ポストホールディガー」という名称らしい。我が家では穴掘り器と呼んでいた。長さ1.5メートルぐらいのコレを振り上げて地面に刺す。柄を開くと先のスコップが締まり、土をつかんで掘り出せる。
これを繰り返せば、幅の狭い、いい塩梅の縦穴が掘れる。

中学生のころ、江南か春日井あたりの現場でこの穴掘りを命じられた。
「こことここ、1メートルずつな」
指示を出すと、父は冷房の効いたトラックに戻った。
気温は30度オーバー。日陰などどこにもない駐車場で苦闘が始まった。

作業の難易度は、穴の深さではなく、地面の質で決まる。
柔らかい土なら深くても楽勝だが、踏みしめられた駐車場のような場所では苦行度が一気に高まる。
その現場は後者のような難物だった。グリグリとひねりを加えて食い込ませないと、全く歯が立たない。それでもひと振り数センチしか進まない。
時折「ガキッ」と大きな石にぶち当たり、手に嫌な反動がくる。
穴掘り器を脇に置き、大型のバール(釘抜き)で石を掘り出す。大物だと10分ぐらいかかる。
石を取り除いたら作業再開。
慣れない動作で肩の筋肉が悲鳴を上げる。
噴き上げ、顎から滴り落ちる汗。
暑い。
進まない。
泣きたくなってくる。
もういいだろう、と父を呼ぶと、穴にメジャーを差し込んで、笑顔で「もうちょっと!」。
結局、2つの穴にほぼ休み無しで2時間近くかかった。

上京してから某所でこの作業を見かけた。
心の中で「オッサン、がんばれ!」と声援を送った。

地下キャバレーの汚水感電地獄

その昔、名古屋の黒川には「ロンドン」名古屋支店などキャバレーが集積していた。子どもの目から見ても場末感しかないボロい店ばかりだった。

高校生のころ、中日新聞の社会面に「老朽化したキャバレーの床が抜けてホステスが溺死した」という奇怪な記事が出た。
どういうことか、さっぱり分からなかった。
謎はすぐに解けた。そのキャバレーの解体工事を我が家が受注したのだ。

父と現場に行くと、地下の店舗は床も壁も取り払われて基礎がむき出しになっていた。

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(拾い画像。こんな感じの基礎だった)

小部屋のように分かれた基礎部分に水が溜まっていた。雨水や排水だろう。
そう、可哀そうなホステスさんは、抜けた床から真っ暗闇の汚水プールに落ちて溺れ死んだのだ。

この間仕切りに穴を開けて「プール」を全部つなげることになった。水を吸い上げるポンプ車のホースが入り口付近までしか届かないので、つなげて一気に吸い上げようというアイデアだった。
安易で、うまく行きそうもないプランだった。

ともかく、私は「はつり機」を手に「プール」の1つに足を踏み入れた。

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「はつる」は「斫る」と書く。以下、Wikipediaより。

主に建設現場でコンクリートで作られた壁や土間などの構造物を壊したり、形を整えるために表面を鑿で削ったりすること。人力によって行われる規模の作業を表すことが多く、重機械によって建物そのものを取り壊す場合はコンクリート造であっても斫りとは呼ばず、解体工事に分類される。

トリガーを引くとブレードが振動してコンクリートを「はつる」ことができるマシーンは、重く、手で支えて横穴を開けるのは相当な重労働だ。
おまけに膝より少し上まで汚水がたまっている。
おまけにその汚水は誰かが溺死した代物だった。
ブラックすぎる現場だ。

膝まで汚水に浸かりながら、少しずつ作業を続けた。父は少し離れたところで打ち合わせをしていた。
作業は遅々として進まなかった。
そもそもビルの基礎に小型の「はつり機」で歯が立つはずがないのだ。
10分ほど悪戦苦闘して作業を中断した。
この時、妙に疲れるな、と感じたが、気を取り直して、コンクリの基礎との格闘を再開した。
ものの数分でまた「何かおかしい」と気づいた。
鈍い痛みが全身に広がっていた。
しかも、中断しようにも、「はつり機」のトリガーから指が離れない。
そう、濡れた「はつり機」の漏電で感電したのだ。
首や肩、腰も硬直し、膝がガクガクと鳴り、全身の自由が利かなくなっていた。必死の叫びは「はつり機」の作動音にかき消された。
「う~!」「う~!」とうめきながら「このまま死ぬかも」と恐怖が頭をよぎった。
1~2分後、異変に気付いた父が「はつり機」の電源コードを引き抜いた。

私がプールから抜け出して「死ぬわ!」と文句を言うと、父は「感電したか! ケケケケ!」と笑った。

翌日、全身があり得ないほどの筋肉痛に襲われた。
結局、汚水処理がどうなったかは覚えていない。

堀川のフナ虫地獄

名古屋の堀川は昔はヘドロが悪臭を放つドブ川だった。
堀川と目抜き通りの広小路の交点にあるのが納屋橋だ。
小学校高学年で入った、この納屋橋の一角の看板取り付け工事は、史上ワースト2の現場だった。

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(納屋橋の南東部。昔はここに雑居ビルがあった)

堀川沿いのビルの壁の3~4階部分に看板を取り付けるのは、足場は悪いけど、大した仕事ではなかった。
最大の敵はコイツらだった。以下、画像閲覧注意。

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(「暮らしーの」というサイトより。リンクはこちら

フナムシである。当時、堀川には大量のフナムシが生息していた。
川沿いの足場の下に、コイツらがこのくらいの「濃度」でいた。

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「フナムシの大群」という動画より

ほとんどの人は「これ、無理」だろう。私は虫が全くダメなので本来、1匹でも無理だ。
でも、無理と言っていては仕事は進まない。
ビス(ねじ)を投げてフナムシを散らしておいて、サブロク(畳一枚サイズ)のベニヤ板を持って突撃する。
ベニヤを放り投げ、足場に敷く。残ったフナムシをベニヤ越しに踏んで処刑する。足元から「プチプチ」と音がする。
思いだすだけで鳥肌が立つ地獄だ。
作業していると、ヤツらがどんどん戻ってくる。
せっせと角棒で追い払う。ジャストミートすると体液を流して死ぬ。
川に落とすと、お尻のスクリューで泳いで戻ってくる。
今、書いていても涙目になるような地獄だ。

「その手を離すな!」流血地獄

雑居ビルの内装撤去の現場には、父、高校生だった次兄、中学生の私、助っ人1人の4人で入った。
事務所の大きなガラス扉を取り外す際、ガラスの一辺が剥がれるように割れてしまった。これが惨事の元になった。

扉用のガラスは分厚く、4人がかりでギリギリ持ちあがるくらい重かった。しかもガラスを寝かせるスペースがなく、立てたまま運ばなければならなかった。「せーの!」の掛け声で持ち上げ、呼吸を合わせてじりじりとすり足で進んだ。
しばらくして、次兄が「ヤバい!ヤバい!」と叫びだした。
ガラスをつかんだ次兄の手から、かなりの量の血がしたたり落ちていた。
縦に滑ったガラスの割れた部分で切ったのだ。
このときの父の反応が忘れがたい。
「離すな!落とすと割れる!そっと降ろせ!」
自分が親になってみて、あの状況で「離すな!」と言えるかと考えると、なかなか凄まじいものがある。

ついでに記すと、高井三兄弟は決して従順な従業員ではなかった。
「現場だ」と言われれば文句を言い、働いている間もブーブーと不満をたれた。
父はそんな不満の声をものともせず、容赦なく動員をかけた。
超零細でほぼタダの労働力に頼っていた面もあっただろうが、父の心の根っこには「仕事なんだからやって当たり前」という心構えと、「生きるのは、そんなに甘いもんじゃない」という覚悟があったと思う。

その覚悟が試されたのが、史上ぶっちぎりの最悪案件、四日市のパチンコ屋だった。

「善意の第三者」地獄

最悪案件の前に、超零細業者の悲哀の一端をご紹介する。

高校生のとき名古屋市内の焼き肉屋の新装工事が入った。内外装は別業者でウチは看板だけの普通の現場だったが、完成後に意外な地獄が待っていた。

オープン当日、父と母と私でその店に行った。お祝いがてらお金を落として、こちらもいくらか集金しようという、よくあるパターンだ。
ところが、店に着くと様子がおかしい。
店主が別人なのだ。
父がその新店主と話をしている間、私はトラックの車内で待った。
しばらくして父が戻り、不機嫌に「帰るぞ」と言った。

帰り道に事情を聞くと、新しい店主は「工事や看板なんて知らない。自分は昨日、この店を買ったんだ」と言い張っているという。
「そんなの通るわけないだろ」と唖然とする私に父が言った。
「初めからグル。元の施主は今頃『本国』に逃げとるわ!」
「訴えたらええやん」という私の言葉を父は「へっ!」と鼻で笑いとばし、「数十万でそんなの割りに合わん。ウチ以外も全員泣き寝入りだわ」と言い切ると、「次の現場で吹っ掛けて取り戻しゃええ」と笑った。
私以上にはらわたが煮えくり返っていただろうに、この切り替えの早さ。年季が違うな、と恐れ入った。

ちょっとお断りを。
私は在日朝鮮人・韓国人および隣国に対して偏見や悪意は持っていない。
上のケースを紹介したのは、やり口が笑ってしまうほど見事だったからだ。

日本人でも「こいつクズだな」と子ども心に思うような発注元や同業者、ブローカーはいくらでもいた。立派な上場企業の社員様でも、マージン抜いたり、キックバックや酒色系の接待を要求したり、酷いものだ。
中小・零細企業の「現場」とは、そういう世界だ。

これから書く四日市の史上最悪案件も、たまたまオーナーは日本人ではなかったが、それと現場の過酷さは関係ない。
単に高井家自らが地獄を招き寄せただけだ。

史上最悪の地獄

四日市郊外の某パチンコ店の現場のことは「高校受験の直前の大誤算」としてこの投稿に登場する。

そのパチンコ店の看板は、屋上に立つ太い鉄柱に「パ」「チ」「ン」「コ」と縦に2メートル大のネオン文字が並ぶ、かなり大きなものだった。
我が家が受注したのは古くなったネオンと関連器具のリニューアルだった。

「パチンコ」の文字はビルの4~6階の高さに、鉄柱にぶら下がるように取り付けてあった。
そんな高所なのに足場がちゃんと組めず、申し訳程度にパイプや丸太のとっかかりに猿のようにぶら下がって作業するしかなかった。
高所作業に慣れている電気工事の職人さんが一目見て逃げ出したほどで、「手が滑ったら一発で死亡」なデンジャラスな作業環境だった。
なお、零細企業の現場に命綱などない。

作業は遅れに遅れ、私は高校受験直前の冬休みに元旦以外は毎日出動する羽目になった。就職していた兄まで駆りだされた。
どんなにときでも音を上げない父が「すまん、助けてくれ」と子どもに頭を下げたほどの土壇場だった。

とにかく辛かったのは寒さだ。
靴下、ズボンは二重にはくとして、動きが制限されるので上着の重ね着は限界があった。手が滑ったら死亡なので軍手や手袋はできなかった。冷たい鉄柱やパイプを素手でつかんだ。
身を隠すところもない高所で、風に体温を奪われる。かじかむ手でネジを締め、感覚のない手でネオンをバトンのように受け渡す。
作業効率が上がるはずもなく、迫る納期にジリジリと追い込まれていった。

目に焼き付いている光景がある。
足場に上っていた助っ人の職人さんが、いらない段ボールを投げ捨てた。
何もない場所をめがけて投げた段ボールを突風がさらい、並べてあった一点物のネオンの真上に落ちた。
「パリン」と小さな音をたててネオン管が砕けた。
妙に綺麗なカーブを描いてネオンに向かっていく段ボールの軌跡が今でも目に浮かぶ。
隣にいた職人さんは「信じられない」という顔でネオンを見つめていた。
ネオン工場に無理を言って同じものを用意して何とか間に合わせた。

納期ギリギリで限界だったある日。
日が暮れると父は私をトラックでJRの四日市駅まで連れて行った。
自分は深夜まで仕事になるから子どもだけ電車で帰らせることにしたのだ。
そんなことは長いお手伝い歴でも初めてだった。

ペンキまみれの仕事着で名古屋まで戻る車中、窓の外をずっと眺めていた。
夜の闇に家やマンションの窓の明かりが浮かんでは飛び去っていく。
「あの明かりの向こうではご飯食べたりテレビ見たりしてる家族がいるんだろうなぁ」
そんな考えが浮かんでは消えた。
疲れ切って、作業着で電車に乗る恥ずかしさも忘れていた。高校受験のことも頭に浮かばなかった。

怒涛の総動員体制で地獄の現場は何とか乗り切った。
集金のとき、オーナーは上機嫌で金庫から札束を積んで一括払いしてくれたという。
私は地獄を乗り越えて志望校に合格した。なぜ受かったのか、今でもよくわからない。

この時の体験で、「冬=辛い」というイメージが染みついている。

父の背中から学んだこと

私は建設現場や道路工事、高所作業に携わる人たちに自然と敬意を抱く。
新聞記者もなかなかしんどい時はある。だが、頭脳労働とは質の違う、生き物としての土壇場に直面することがあるのを身をもって知っているからだ。

こんな機会は滅多にないので、ちょっと照れくさいが、面と向かって言ったことはない気持ちを記しておきたい。

私は職業人としての父を尊敬している。

父親としては問題が多々あったが、仕事では手を抜くことも、投げ出すこともなかった。最後には何とかした。
高井三兄弟はその姿を「現場」で一緒に働き、自分の目で見て育った。
これはサラリーマン家庭では望めない幸運だろう。

それは今の私の働き方にも確実に影響している。
四半世紀近くの記者稼業で私は一度たりとも締め切りを破ったことはない。
あの四日市の地獄ですら、最後には間に合わせた男を見て育ったのだ。
手を動かせば何とかなる仕事の締め切りくらい、守るのは当然だ。

最後に、地獄ではない、でも忘れがたい「現場」を紹介したい。

それは小牧か犬山あたりのパチンコ屋の看板仕事だった。
半地下の駐車場にトラックを止めて外に出ると雲行きが怪しい。
案の定、作業に取り掛かってしばらくして、雨が降りだした。かなり激しい降りだった。
車中に避難して少し待ったが、雨脚は弱まらない。
(今日はもう撤収かな)と期待していたら、父が「お前は待ってろ」と運転席から出て行った。
いくら何でも、この雨で現場仕事は、ムチャだ。
雨だけじゃなく、その日はそこそこ冷え込みもキツかったのだ。

小一時間で父が戻ってきた。頭のてっぺんからつま先までズブぬれで、冷え切った体をガタガタと震わせていた。
タオルで顔と髪を拭き、全開のヒーターに手をかざし、無言で体温を取り戻そうとしていた。
私は、かける言葉もなく、それを見ていた。
5分ほど経つと父が、
「パン!」
と柏手のように手を打ち鳴らし、両手をこすった。気合いをいれるときの父の癖だった。
「帰るぞ!腹減った!」
一声あげると、ハンドルを握り、何事も無かったようにトラックを発進させた。

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