小林先生がいた 「神様」を倒したビリヤードの巨星
1月16日、昨年11月に77歳で急逝された「小林伸明先生を偲ぶ会」に出席した。ご縁のあった者として、ビリヤード界の巨星のご功績を故人の思い出とともに記しておきたい。
伝説の世界チャンピオン
世間で「小林伸明」を知る人は少ないだろう。
だが、ビリヤードの一種目「スリークッション」において、小林先生は世界中のプレイヤーから敬愛される伝説的な存在だった。
現役屈指のプレイヤー、ダニエル・サンチェスが来日したとき、試合中、会場に小林先生が姿をみせた。その瞬間、サンチェスはゲームを中断して歩み寄って、小林先生に敬意をこめて握手を求めた。
今回の「偲ぶ会」にもサンチェスはメッセージを寄せていた。
歴代最強プレイヤーの1人、トルビヨン・ブロムダールもこんなメッセージが届いていた。
心技体の競技 スリークッション
スリークッションについて簡単に説明しておこう。
ゲームはポケットがない一回り大きなテーブルで、3つのボールを使って行う。
・自分の球(手球)を残りの2つの球(的球)に当てる
・2つの的球に当てる過程で3回以上クッションを使う
これが得点条件だ。
こんな状態から白い手球を撞いて、まず黄色にあてる。
1,2,3とクッションして赤に当てれば1点。ミスをしたら相手と交代する。先に規定の点数を取った方が勝ちだ。
上の例は基本中の基本の「箱玉」。テーブルを1~2周させたり、手球に強烈なスピンをかけたり、台上を数往復させたり、無数の得点パターンがある。
プレーに際しては、
・球のコースを読む知識とセンス
・適切なショットを選ぶ判断力・独創性
・ショットのテクニックとパワー
・メンタルコントロール
が求められる。
非常に奥が深く、チェスとゴルフを組み合わせたような「心技体」のバランスが求められるトータルスポーツだ。
神様を破った男
小林先生はスリークッションの世界選手権で1974年と84年に2度、優勝している。
日本人初の快挙だった74年の優勝は世界に衝撃をもたらした。バスケに例えれば、マイケル・ジョーダン全盛期のシカゴ・ブルズを破るようなジャイアントキリングだったからだ。
60年代から80~90年代にかけてスリークッションには「神様」が君臨していた。史上最強・最高のプレイヤー、レイモンド・クールマンスだ。
(公式サイトより)
クールマンスは1963年から73年まで世界選手権を11連覇し、75年から80年に6連覇している。74年の小林先生の優勝は、クールマンスにとって18年間で唯一の黒星だったのだ。
この快挙で先生は「神様を破った男」と呼ばれ、Kobayashi は世界のビッグネームになった。
先生は世界選手権で10度も2位となっている。常にその前にクールマンスという「壁」が立ちはだかった。
だが、クールマンスと全盛期がズレていれば、という想像は、おそらく的外れだろう。
生前、先生は「彼がいたから、自分はスリークッションを極めようと思えた。彼がいたからこそ、ここまで来られた」と仰っていた。先生にとって、クールマンスは「壁」であると同時に、ともに道を究める同志、つまり最高のライバルだったのだ。
全盛期の小林先生は国内ではアタマ一つ抜けた存在で、全日本選手権で13回優勝するなど輝かしい戦績を残している。
小林先生とクールマンスの直接対決の動画のリンクを貼っておく。ご興味のある方はご覧いただきたい。
少年の笑顔の「ま、こんなもんや!」
私個人の思い出を書き残しておきたい。
中高生のころからポケットビリヤードをやっていた私は1998年ごろに自分のキュー(プレー用の棒)を買って本腰をいれてプレーを始めた。
そのころから「いつかはスリークッションをやりたい」と考えていた。父が若い頃、スリーを撞いていた影響だった。
そして2005年、新大久保の「ビリヤード小林」に足を運んだ。小林先生が経営するビリヤード場だ。
スリークッションは「持ち点」というハンディキャップがある。通常1ゲームは25イニングで、自分の持ち点を取ったプレイヤーが「あがり」で勝ちとなる。両方ともあがれなければ引き分けだ。
ポケットで基礎ができていたので上達は比較的早く、初めて半年ほどで持ち点は16点になった。初心者から中級者に脱皮するくらいのレベルだ。
ちょっと分かってきたぞ、という程度のこの頃、小林先生が「一丁、やるか!」と声をかけてくださった。
「ついに!」と肌が粟立った。
持ち点40点の先生と、初心者に毛の生えた腕前の私の対戦が始まった。
最初のゲームは、私がいきなり「あがり」で勝った。
続く2ゲーム目も「あがり」まで1~2点とまずまずの成績だった。
一方、先生は20点そこそこで、今一つ調子が出ないご様子だった。
2ゲーム終わったところで「ありがとうございました」とお礼を言った。
まだ撞きたかったが、たまにしか顔を出さない先生とは、他の常連さんだって一緒にプレーしたい。独り占めするのは気が引けた。
ところが、ここで先生から「ん? 時間はあるんやろ?」と続行宣言。
その目が「勝ち逃げは許さへんぞ」と語っていた。
まだ始めて半年のアマチュア相手に、大人げないほどの執念!
3ゲーム目はお互いそこそこの点数で引き分けとなった。
そして4ゲーム目。
先生は連続11得点を含む華麗なプレーで40得点をあげ、見事に勝利した。
「ま、こんなもんや!」
リベンジをかました先生の顔に、少年のような笑みがうかんだ。こっちも笑ってしまった。
「真似したら『壊れる』ぞ」
初めて先生のプレーを間近に見て、私はある上級者から受けた助言の意味がようやく分かった。
「小林先生の球は『見るもの』だ。絶対、真似するな。壊れるぞ」。
実際、先生に憧れ、同じようなプレーを目指して大スランプに陥ったプロやアマをたくさん見てきたという。
ビリヤードには「切れ」という用語がある。
単純化すれば「キューから手球に回転力を伝える能力」を指す。「キュー切れ」という言い方もある。
キューによっても、プレイヤーによっても、球の「切れ」にはかなりの差がある。切れのあるプレイヤーは、手球にバックスピンをかける「引き球」で容易にテーブルを1周させる。
訓練で「切れ」はある程度上がるが、センスによるところも大きく、私はキャリアの割にあまり「切れ」がない。
先生の球は、この「切れ」だけとっても異次元のレベルだった。
最大限にスピンをかける「マキシマム」と言われるショットは、手球がCGのような異様な動きをみせるのだ。
普通のショットでも、球の転がりが滑らかで美しく、まるで生き物のように球が動く。どんなトッププロとも違った独特の挙動で、見るたびに「いったいどうなっているんだ」と首をかしげるしかなかった。
なぜそんな差が生まれるのか、うまく説明はできない。
ショットの際、球とタップ(キューの先に取り付ける革)が接触するのはほんのわずかな時間だ。
その一瞬で伝える情報が手球の挙動を決める。「球をとらえる」安定したストロークがカギを握る。
私のようなアマチュアでも、まれに「今のは理想に近い」というストロークができることがある。
そんなときには右手に不思議な手応えが残る。球の重みをほとんど感じず、キューが球を貫通したような、柔らかく心地よい感触だ。
「これが毎回できれば」と練習に励むのだが、再現性はなく、偶然でしか体験できない。
おそらく小林先生は、私が「理想に近い」と感じるストロークの、さらに何段も上のレベルの状態で、高い再現性を持ってプレーできたのだろうと想像する。
それは、タップが触れるほんのわずかな瞬間に「球に魔法をかける」ような、人間離れした技だったのだろうと思う。
この対戦以降、私は「先生は宇宙人」と認定して、プレーは「見るだけにしておく」というアドバイスに忠実に従った。
譲ってもらった2本のキュー
私が持つスリークッション用のキュー3本のうち、2本は小林先生に譲っていただいた。
普段使うのは「アスリート」というシリーズのキューだ。先生は長年、「アダム」というメーカーと二人三脚でキューの開発に携わっておられた。私の「アスリート」はアダムが先生に預けた試作品だった。そろそろ初心者用のキューを卒業しようと考えていたころ、先生からお借りしたキューの打感に一目惚れして、譲ってもらった。
このキューを買った後、ストロークの矯正をご指導してもらったのが忘れがたい。
持ち点が22点に上がったころ、私はスランプに陥った。問題がストロークにあるのは分かっていた。
鏡の前で素振りを繰り返していたら、たまたまお店に出ていた先生が20分ほどマンツーマンレッスンを授けてくださった。腕やグリップの角度、インパクトのタイミングなどについてアドバイスをもらうと、霧が晴れるように課題と解決法が分かった。
この日を境にスランプを抜け、1年後に目標の持ち点25点に到達した。
なお、今でも私のハンディは25点だ。これは「スリークッションは一通りこなせる」というレベルで、26点以上がゴルフで言うとシングル、30点以上がトップアマといった感じだろう。
30点以上といったレベルは、人生の何かを犠牲にしないとたどり着けない境地だと私は考えている。だから「万年25点」で満足している。
先生に譲っていただいたもう1本の別のキューも思い出深い。
私がスリークッションをやるのは、父が好きだった影響が大きい。その父は、仕事で手に大きな怪我をした影響で、左手の指で「ブリッジ」がうまく組めないというハンディがある。
私は先生に「ブリッジが組めない父でも使いやすい、通常より重くてバランスが前寄りのキューを探している」と相談した。
しばらくして先生が秘蔵のキューを持ってきてくれた。グリップ部分が2つに分かれて重さを調整できる極めて特殊なキューだった。先生のアイデアをもとに試作したが商品化は見送られた完全な「一点物」だった。
一点物で値段を付けようがない。困っていると、「ま、10万でええわ」と格安で譲ってくださった。
父にプレゼントしたと報告すると、先生は「これでお父さんも思いっきり球が撞けるな!」と喜んでくれた。
今年80歳になる父は先生より少しだけ年上だ。先生の話になると「小林シンメイが『若手』のころはなぁ……」と切り出すのが常だ。
先生とはお酒をご一緒する機会も多かった。
忘年会や、常連さんたち数人でふらりと新大久保のスナックや居酒屋で痛飲した。明るく楽しいお酒で、ちょっと飲み過ぎかなと思うこともあったが、酒席で威張ったり、説教したりといったことは皆無で、ビリヤードについて大いに語り、エンドレスでカラオケに突入する愉快なひとときだった。
残念ながらその後、先生は大腿骨の手術などをきっかけに長く体調を崩され、私もロンドン赴任など仕事が多忙になって「ビリヤード小林」から足が遠のいてしまった。
「世界の選手権者でも小さなこと」
16日の「偲ぶ会」の会場は、「ビリヤード小林」だった。
100人を超える関係者が集まる盛大な会で、あちらでもこちらでも誰もが小林先生の思い出話に花を咲かせていた。たくさんの笑い声とお酒、そこに少しの涙がまじった、心温まる会だった。
ビリヤードの世界は一癖も二癖もある人が少なくないのだが、誰にでも分け隔てなく接し、誰にでも愛された小林先生のお人柄が会場を包み、これぞ「偲ぶ会」という素晴らしい集まりだった。
機会をもうけてくださったご遺族と、ご尽力いただいた小林先生の門下生有志の皆さまに改めて御礼申し上げます。
4時間におよんだ会が終わり、帰路に記念品の入った紙袋を開けてみると、奥様による「人生ビリヤード」と題した礼状が同封されていた。
一部引用いたします。
晩年にプレーを再開してから、先生は30点の持ち点でしばしば「あがり」を記録されていたと聞く。ゴルフで言えば、70代後半でエージシュートどころかアンダーパーをしばしば叩き出すような驚異的な記録だ。
亡くなる前月には全日本シニア選手権に出場されるまで復調されていた。
(眼光の鋭さは健在だった)
先生がビリヤードを再開されたと耳にして、「一度はご挨拶に」と思いつつ、忙しさにかまけているうちに機会を逸してしまった。
悔やんでも悔やみきれない。
天国に、ビリヤードテーブルはあるのだろうか。
あるに違いない、と私は思う。
「偲ぶ会」には今年で83歳になる終生のライバル、クールマンスからこんなメッセージが届いていた。
クールマンスにはもっと長生きしてもらいたい。
私がSomewhereに行くのはもう少し先のことと願いたい。
それでも、また小林先生とゆっくり球が撞けるなら、あの世も悪くない。
順番待ちの列は果てしなく長くなるだろう。
それなら見学だけでも構わない。
あの魔法のようなストロークから繰り出される、天上のショットを再び目にできるなら。
(以下、「偲ぶ会」に展示されていた貴重な写真・資料を共有します)
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