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ラブホテルの廃墟

国道188号線を山口県周南市方面から光市まで車で走り、室積海岸の手前で、県道162号線に左折する。それまで延々と続いていた、ありきたりな地方都市郊外の風景が、次第に、ありきたりな田舎の風景に変わっていく。くねくねとしたカーブの多い上り道を、少し落としたスピードでそのまま走っていくと、ふと、ペンキで落書きされた奇妙な建物が出現する。地方都市在住、または、地方都市、及び、その周縁の田舎在住の人なら誰もが知っているであろう、ラブホテルの廃墟である。おそらく、都会に生まれた人たちは、この光景に戸惑うのではないだろうか。なぜ、こんな場所にラブホテルの廃墟があるのかと。更に、もう少し車を走らせると、現在も営業中のラブホテルまであることに。

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先の敗戦後、日本の都市郊外は、都会とは違い、現代にまで続くモータリゼーションの先駆けとなった。戦後初期こそ、車を所有している日本人は少なかったが、日本の経済成長と比例するように、あるいは、日本総中流家庭という死語が示しているとおり、車は一家に一台、その後、一人一台の時代に変わっていく。その過程で、地方都市郊外の田舎道には、平屋建てのラブホテルが、ひっそりと、しかし、煌々と建てられてきた。80年代に性が開放的になるまで、おそらく、地方都市の恋人たちはひっそりとお忍び的な感覚で、地方都市郊外の田舎まで車を走らせて、ラブホテルを利用していたのだろう。その後、高度経済成長、高速道路網の拡大、地方都市の中心市街地都市化を経て、お忍び的な田舎道のラブホテルは不要になっていく。おそらく、地方都市郊外の田舎道で朽ち果てているラブホテルの廃墟と、いまだ営業中のラブホテルの混淆は、そのような経緯と、日本経済の衰退、そして、地方都市中心市街地空洞化の結末である。

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私は廃墟マニアである。毎日、夜中の廃墟に侵入しては、そこで一晩中、幽霊を待つほどの廃墟マニアである。というのは嘘だが、そこそこの廃墟マニアではある。noteでは、今後、日本に点在する廃墟の紹介や、それら廃墟から、私が考察したことなどを綴っていきたいと思っている。私は、なぜ、廃墟に魅せられるのか。フランスの哲学者、ロラン・バルトはその著書『明るい部屋』において、写真の始原性と記号性、つまり、ある写真を観た者がそこに人間の歴史的記憶を見い出すか、あるいは、資本主義的コマーシャリズムを見い出すかについて考察し、それを「写真のエクスタシー」と名付けた。そして、ロラン・バルトは「そのどちらを選ぶかは、写真を観た人の自由である」と結んでいる。ロラン・バルトに倣えば、私がやろうとしていることは、廃墟から歴史的記憶を見い出しつつ、それをコマーシャリズムに変換することである。そういう意味では、私がやろうとしていることは、意味がわからない。私は『明るい部屋』から多大な影響を受けているし、ここまでロラン・バルトについて少し触れたが、実は、私の廃墟好きにはロラン・バルトはあまり関係がない。私は、単純に、朽ち果てている構造体や破壊された建物、または、破壊の予感のようなものが好きなだけなのだ。その証拠に、私は個々のラブホテルの廃墟の歴史性には、一切、触れていない。では、なぜ、私はロラン・バルトを持ち出したのか。人物写真について「それは・かつて・あった」とロラン・バルトは書いている。私は人物写真を撮っていないし、ここに載せてもいない。しかしながら、ラブホテルの廃墟写真から、何かを連想することは可能だ。もし、これを読んでくださった人がいるなら、私が載せたラブホテルの廃墟写真から、「かつて」の恋人たちの夜の営みや、あれこれを連想することができる。それは、あなたたちの自由である。

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次回もまた、日本のどこかの廃墟写真を紹介したいと思う。願わくば、廃墟が解体されて、地方都市郊外のその定点が、点在する中心になってしまわないことを祈りながら。