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富を誇示することで起きる緊張

1970年代のことだ。かなり昔になる。高校生になって中学生のときより自由になった気がした。とりわけ学校に時計をしていっていいことがうれしかった。うれしさが有り余ったのかクラスの友達に自分のしている時計を見せびらかしてしまった。父親が苦労をして買ったものを借りてきたものにすぎないのにちょっとばかり自慢したかった。それがよくなかった。

皆がどんな時計をしているのかは気になった。クラス45人で男女は半々に分けられていた。同じ学生服をきて髪の毛もみな同じ形をしていた。目立ったことをはでにしてはいけない。風紀係の先生がやってきて呼び止められることすらあった。

ちょっとこの髪型はやめなさい。係の先生の裁量によって強くとがめられることもあったり、何も言われないこともあった。その差がよく理解できなかった。しかしながら高校側としてはなるべく皆同じようにという方針を貫いていた。個性や表現の自由は抑えられていた。

イギリスの雑誌エコノミストに中国の裕福な女性たちについて載っていた。ある女性たちは裕福であることを隠すことがない。公然と富を誇示しているという。ブランドの店舗の前ではばかることなく高級服、ブランドのアクセサリー、ファッション・バックといったものを見せている。見せびらかしであろう。

ところが公の場で富を顕示しているだけではない。ソーシャルメディアを使って自分たちの写真を投稿する。TikTokで富を見せびらかしている。それが少々問題になっているということだ。どんな問題であろうか。

ひとつは政府がこの光景をあまりほめられたものではないと解釈している。貧富の差を見せつけてはならない。あからさまに富を誇示することはほめられない。必ず貧困で苦しんでいる人たちはいるからだ。それを政府が規制したいと考えた。その規制とは裕福な人たちが持っているソーシャルメディアのアカウントを強制的に凍結するという。そこまで権限があるのか。それによって富裕な人たちと政府間で緊張が起きる。

人として表現の自由というものがある。路面で見せびらかすくらいのであれば表現としてはいいだろう。しかしソーシャルメディアとなるといろいろと物議を醸す。貧しい人たちが見たら愉快ではない。このような富の差が同じ国に住んでいて起きていることを政府は認めたくない。そのために政府はアカウントを凍結したのだ。ところが政府にそんなことをする権限があるのかというは反発も起きるであろう。どこまで権威を振るうことができるのか。

次に見せびらかしをしている人たちはインフルエンサーでもある。ファッション・ブランドを展開する企業にとってはインフルエンサーがソーシャルメディアで宣伝をしてくれるのでありがたい。商品が売れるための広告になっている。ソーシャルメディアの利用者が影響を受けてブランド品を購入する可能性がある。

利用者は自分もお金持ちになってファッション・ブランドを身に着けたい。そう考えるだろう。ならば企業にとっては無料で宣伝をしてくれるのであれば助かる。しかも広告費がかからない。ところがインフルエンサーのアカウントを凍結されたとなれば企業にとってはマイナス材料だ。企業側と政府側に緊張が走る。

最後に消費者間で緊張が走る。それは貧富の差を見せつけられれば人は愉快ではない。同じように働きながらどうしてこのようにブランド品を買える人と買えない人がいるのか。自由はどこにあるのか。不満は発生する。お金があるのは単に幸運であっただけではないのか。そういった妬みというものが形を変えて不満となる。場合によっては爆発すらしてしまう。

消費者、政府、そして企業。これら3者間に発生する緊張をどのように均衡させていけばいいか。そういったことを考えるきっかけの記事であった。

東京ではそういうことはあるのか。東京では一般的にお金があることを見せびらかすのは好ましいとは考えていない。品格のある行為とは考えられていない。お金持ちに対して一種の妬みというものを多くの人が持ち合わせている。表現の自由が抑えられているのもそういった理由がある。妬みによる争いをなるべく少なくしよう。そういう意図がある。

高校の時はちょっとばかりいい時計を持っていた時期があった。それがうれしくて思わず見せてしまった。周りは見せびらかしていると思ったであろう。自分でも得意になったことで今から考えると実にばかげたことをしたと反省する。運が良くてお金持ちになったとしても見せびらかすような行為は慎み、謙虚にしていた方がいい。

日本人はおとなしめを好むのではないだろうか。