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3.1 3.2 集団経済と人民公社

農村漁村文化協会訳 pp.112-121
毛沢東は「所有制が変われば、必ず生産力の大きな発展があるので、推進を促すことができるだけで、後退を促すことはできないし、盲進に反対するのはいかなる場合も誤りである」と信じていた p.113   (私も毛沢東の書いたものを読むとき、毛沢東はこのように信じていたと感じる。つまり生産関係決定論である。その意味では所有制が変われば、農民の生活水準も向上すると考えていた。大躍進のもとで生じた大後退は、意図とは逆の結果であった。半面、大衆の情熱的な運動が必要で不可欠だとも考えていた。そこから結果が思わしくなかった場合、政治意識が低かったとか、階級闘争に熱心でなかったといった批判が入り込む側面があったのではないか。)

(人民公社における、公有制、生活の集団化、人海戦術、政治と経済の一体化、ブルジョア階級批判など 杜潤生は明確に特定のなにが原因だとは言わないが、人民公社で生じた問題の一つに「共産風」を上げる。)p.115 こうした指導思想は、結果としてすべてを共同所有とする「共産風」を蔓延させた。大衆から勝手に「金・銀・銅・鉄・錫」を徴発したり、「布団一組と茶碗と箸」以外はすべて共有化にしようとしたりするごとくである。農民の家にあるものは自転車さえも供出しなければならじ、「必要に応じて」幹部が使用できるものとされた。物が公のものになったばかりか、人間も公のものになり、「公有制」は「みんなが勝手に持ち去る」制度に変質してしまった。・・・人民公社は政権機能をもつようになり、上級機関が高い目標や買上げ数量を下達擦ると、下部ではそれを達成するために行政的命令やでたらめな命令が横行し、果ては暴力が振るわれ、個人攻撃の批判、闘争が行われるなど、人身の権利も侵害された。

(なぜ抵抗が起きなかったかについて、杜潤生は農民にも現状を変えたい願望と共産党を信じた面があること、また政治闘争や教育運動による政治的圧力で大勢に従わざるを得なかったとする。そして人民公社で生じたごまかし(造假) 法螺(浮夸)の横行を上げる。さらに人民公社での「平均主義,無償調達、負担金徴収(一平二調三收款)」により農民の権利は侵害され)pp.115-116 (ごまかしや法螺も横行し)、平均主義的分配も維持できなくなった。・・・(栄養不良から)労働もできなくなり、・・・ついに大飢饉が発生したとする。(ここはもう少し深い分析が欲しいところ)

(以下は結論部 彭徳懐の批判で毛沢東が却って硬化したように読める。この言い方は、批判がなければ毛沢東が自ら方針転換したはずと読めて釈然としない。本当に偉大なら大躍進や文化大革命といった誤りをしてはならないのではないか?)p.120 結局のところ、毛沢東は偉大なマルクス主義政治家であり、彼は自ら先頭を切って、決然として以上のような誤りを是正した。だが、彭徳懐は1959年に書面を出して、大躍進や人民公社はプチブル階級の熱狂病であると非難し、毛沢東にこの教訓を受け入れるように迫った(刺激)が、この場合は、それがかえって毛沢東の反右派の論調をより強めさせ事態を収拾不能にしてしまった。とはいえ、悪事は好事に変えられるものであり(壞事變成好事)、長期にわたる経緯の末に、党の指導者が大衆の要求に適応するようになると、すぐさま政策転換がなされたのである。

p.120 「大集団経済」では人々は十分食べさせることができず、餓死者まで出したため、農民は手立てを尽くしてリスクを回避しようとした。0
瞞產私分  生産量をごまかしひそかに分配する方法
自留地の拡大 のちに拡大されて包産到戸(農家生産請負制)になった

pp.120-121  包産到戸は農民の選択の結果なのであり、最初の段階では一種のリスク回避の意識から発したものだったのである。その後、大衆と指導者のあいだでの駆け引き、相互作用の過程を経て、最終的に新しい経営体制に転換していき、それがさらに人々によって引き継がれ、今日の公有土地農家請負制(公有土地家庭承包制)になったのである。

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