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1904年没落地主の家庭に生まれる

『薛暮橋回憶錄    第2版』天津人民出版社2006年1月pp.1-3より
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1. 革命事業への献身
 没落した地主家庭から歩み始める

 1904年(清朝光緒30年)10月25日、私は江蘇省無錫県礼社鎮に生まれた。父は私を薛與齡と名付けた。無錫県は江蘇省南部に位置し、南は太湖に接し、風景は秀麗で、魚米の里として著名である。20世紀初めの無錫には、すでにいくつかの綿布工場(紗廠)小麦粉工場、生糸工場があった。20年代に至るまでにはすでに100近い工場があって、蘇南の経済の中心として、歴史的には「小上海」と呼ばれていた。礼社はこのような小鎮であったが、1923年には小さな発電所が置かれて、照明のほか、水利灌漑そして精米(軋米   米粉を作っている?)に用いられた。当時の中国は半植民地半封建社会で、七分封建三分資本と言われたが、無錫はこのとき七分資本三分封建だったかもしれない。
 薛姓は無錫西北郷の大族である。はるか明代の末に薛姓の祖先は将軍であったが、罪を得て無錫礼社に降格となり、田地を大量に購入し、大地主となった。彼には5人の息子と25人の孫がいて地主集団を形成した。薛姓の家族は五家(房)に分かれ、第五房の祖先は1350畝の旱魃にも水の多いことにも害されず収量が保たれる(旱澇保收)良田に「義庄」を設け、自ら生計の道を立てられない子孫に提供した。「義庄」の規定はおよそ貧苦の子孫は男女の隔てなく、16歳に満ちれば毎年毎人2石(300斤)の米を分ける。16歳以下は1石。結婚葬式の大事は等しく支援する。このほか学費を補填し、孤児寡婦を救済する。祖先が「義庄」を設立した目的は、子孫が安定した生活が送れ、先祖に手向ける香煙が絶えないことであった。しかし薛家の多くの子
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孫が義庄を生活保障の手段としただけでなく、農務を嫌い、外に出て働いたり商売をすることを嫌い、家の中で麻雀したり煙草を吸ったり、働くことを嫌い(游手好閑)「義庄」で食べる人はますます多くなった。私が生まれたときには、礼社薛家の地主集団はすでに衰え没落しつつあった。一部の義庄で食べる人は、土地を貸してしのぐことを始めていた。祖先が子孫の福利のために設けた義庄が、家族の没落を加速し、今やその結果は完全の消滅を待つばかりであった。生存の権利は自己の労働で作り出す必要があり、ただ座って食べていても(坐吃山空)出口はなかった。私の父は面子を大事にする人で、家計がもっとも苦しいときも、なお義庄に頼らなかった。当時私はなお少年時代だったが、身辺には厳しい社会現実があり、私に強い印象を与えた。これは私が社会経済問題に関心を寄せる一つの起点になった。私が1932年に書いた論文の題は「江南農村衰落の一例」。この文章は礼社の経済情況と変遷を詳細に分析した。文中、薛姓家族の没落を分析したところで以下のように指摘した。「自ら木が腐るに任せて、大きな建物の傾きを木が支えることを期待する。ただ座って暴風が吹き荒れるのを待ち、その風が収まり生き延びていること(風燭殘年)を期待する」
   私の父である薛魁標は知識がありまた道理をわきまえた(知書明理)人であり、親切で穏やかで(情に)厚く、子供をたたいて叱ることはなかった。人と争うことはほとんどなく、当地で人気のある開明士紳であった。彼が少年の時、家には数十ムーの土地があり、煙草店を開業して、煙草の加工販売いていた。家業からみれば我が家は、当地では小地主兼小商人といえた。魁標が15歳のとき、彼の父親(私の祖父)が亡くなり、彼の母親(私の祖母)が家を継ぎ、田地の大半を売って、三間四進(3つの家族部屋と四方に開いた?)の住宅を作り、家庭経済の地位は次第に衰落を始めた。当時一家には3つの部屋があり、魁標は母屋(長房)に子女6人、三男三女とともに暮らした。二房の夫妻は早く亡くなり、二人の息子が残っていた。小房にも二人の息子。これら4人はみな私の母方の年上の従兄(堂兄)である。平凡無能な父の弟(小叔)は煙草店で普通の店員になっていた。この巨大な家庭がみな父の頑張り(支撐)に頼っていた。息子たちは大きくなると、中学、大学へ進み支出はとても大きかった。このような困難な環境の下、私の父はなお事業をすることを考えていた。
    薛姓の祖先は”義庄”を行ったほか、義塾(のちに群智小学と呼ばれた)も行った、男子生徒を受け入れ女子は受け入れなかった。私が幼年の時、私の父がカネを出して、家の中の客間(大廳)を使い、”培本女塾”を行い、就学の機会ない女子に勉学の機会を提供した。女塾は20世紀初めの中国農村では、封建伝統観念と合わない営みであったが、私の父のこの女塾は礼社では地元民に歓迎された。無錫資本主義の開始発展と、
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礼社地主集団の破産は、封建思想を弱めており、開明そして進歩の思想が相応に早く入ることが出来た。多くの地主と地元民が次々に女子を学ばせにきた。培本とは培養根本の意味。女塾を立ち上げて後に、一人の教師を招聘、私の父と母もまた自ら教えた。私は6歳の時、この学校で学んだ。学校は女塾であるので、同窓は姉さんばかり、私一人が男の子でクラス全員の弟になった。規定により各学生は毎学期ごとに三元の学費支払いを求められた。しかし大部分に学生は支払うお金がなく、私の父母も催促を好まなかった。出費(賠錢)は多かったが、父は学校を続けた。覚えているのは毎日最後の一課は母の担当で、彼女は私たちに暗唱(背書)を求めた。私が「天地日月、山水土木」と暗唱を終えると,帰ることができた。私が就学して一年後、この深く歓迎された培本女塾は、家庭の経済情況がひましに困難になり、続けられなくなった。
 私の母周慎修(旧社会で女の人は結婚すると、娘の時の名字で呼ばれず夫の姓で呼ばれ、当時母は 薛周氏を名乗った。新中国成立後、1953年に普通選挙投票に参加、そのときからは我が家の客間の表札(匾)は選民証に記入された”周慎修”の名前となった)は地主家庭の出身で、若い時に学び、80歳になってなおいつも新聞を読んだ。彼女は心の大きな(心胸豁達)人で、子供たちへの愛であふれていた。彼女は自分の子供たちに文化知識を教えただけでなく、我々に以下に一人の正直な人となるかを教えた。「たとえ自分を損をしても、ほかの人を騙してはいけない(寧可自己吃虧,不能欺侮別人)。」彼女は自身の6人の子供を育てただけでなく、早世した叔父叔母が残した二人の従兄弟を、中学、大学卒業まで養った。その後、彼女は孫の世話をした。彼女は私の姉や弟の娘の世話をした。私の長女の薛宛琴は生まれて二か月後からずっと彼女が育てた。14歳になって上海が開放後、ようやく私たちのもとに戻ってきた。私の母は96歳まで生きた。新中国成立後、十数年幸せな生活を過ごしたが、”文化大革命”中、凄惨さに驚きながら(因受驚嚇凄涼地)世を去った。

#薛暮橋   #義庄

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