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新中国の社会主義とその経済学の歩み

                      福光 寛 (お問合せ先)

 中国経済学の歴史を俯瞰しようと考えているのですが、まだその作業は出だしの段階です。今回2019年の春夏講座では、その最初の試みとして、孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)薛暮橋(シュエ・ムーチアオ 1904-2005)于光遠(ユー・グアンユアン 1915-2013)顧准(グー・ジュン 1915-1974)杜潤生(ドウ・ルンシェン 1913-2015)の5人を取り上げました。いずれも、この初回にとりあげるのにふさわしいビッグな存在なのですが、残念ながらどの人も日本では十分知られていないと思います。
 今日(2019年6月29日)は今回の講座の最後の日ですので、なんとかまとめ的なお話を試みたいと思います。
 まず孫冶方は独房に収監されて7年、ついに説を曲げなかったわけですが、権力に抗して、学問的に正しいと思ったところを主張した生き様は強烈です。今回お話はしませんでしたが、実は同様な生き方を貫いた人物に北京大学校長だった馬寅初がいます。彼はその人口論が批判を受けたのですが、たとえ一人でも、自ら信ずるところのために戦うという姿勢を示しました(自當單身匹馬,出來應戰,直至戰死爲止。)。孙冶方は馬寅初が亡くなったあと、馬寅初への共感にあふれた文章を雑誌経済研究に寄せています。
 福光 寛「中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について」成城大学『社会イノベーション研究』第12巻第1号, 2017年2月, 273-298 北京大学校長としての馬寅初
 福光 寛「中国経済学の父 孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)」成城大学『経済研究』第217号、2017年7月,  101-125
 つぎに薛暮橋,于光遠の二人は、政権内部深くに居た位の高い人物でしたが、それでも文革では批判を免れていません。于光遠は、名門清華大学出身で専門の物理の研究者の道を捨てて党活動に入りましたが、ご紹介しましたように、最初の奥さんとは反右派闘争で離婚させられ、その最初の奥さんを文革の中で殺されています。これに対して、監獄大学出身で、統計局長を務め、改革開放後は国家が公認する「社会主義経済論」をまとめきった薛暮橋。この二人を比較したとき、私は于光遠の方が、影があって好きです。彼は毛沢東が新民主主義論を提起しながら、新中国になってまもなく捨ててしまったことを、残念なことだったとします。それだけでなく彼は、六四事件の対応で、趙紫陽(チャオ・ツーヤン 1904-2005)を支持した少数派の老幹部の一人です。これに対して計画経済と市場化、双方で旗振りをした薛暮橋については、時々の主流派に乗り保身を図っていた印象がつきまといます。それをよく示すのは、薛暮橋が、1980年代に入って、陳雲が計画が主で市場は従だと発言すると、すぐに陳雲になびいたこと、そしてそのあと再び市場派に戻っていることです。
 そして顧准です。前回、顧准について社会主義に市場を持ち込む市場化の議論で先鞭をつけた人という評価があるけれど、私としては社会主義社会の民主化の議論を正面から議論した人として評価しているとお話しました。
 顧准という人が偉いのは、その作業をギリシャ・ローマの歴史を訪ねることから始め、西欧の哲学そして政治の歴史をたどって導いた点です。日本でも民主主義の理解について、同じ作業が社会全体でなされたと思いますが、それは沢山の人の知的な分業としてでした。しかし彼はたった一人で、ギリシャ・ローマの歴史、ヨーロッパや米国の歴史、西欧の哲学史、そうした勉強のうえで、社会主義革命後、レーニンが無産階級の独裁を肯定して議会制度を否定したのは間違っていた、カウツキーが主張していた議会を肯定する社会民主主義が、社会主義革命後の国家の在り方として正しい、との結論に至ったわけです。また、多元主義的価値観の肯定、民主集中制とよばれる共産党独自の民主主義の否定にまで至った点も重要です。
 なお無産階級独裁が誤りだということについては、西欧の民主主義の比較の上で明確に指摘した人物に、中国共産党の創設者、陳独秀がいて中国国内でも関心を持たれていること、この点もご報告の中で触れた点です。
 顧准の「理想主義から経験主義へ」の記述は六四事件のあと中国でも出版され、中国の知識人に大きな影響を与えました。しかしその事実を、日本ではなぜか、これまで文字できちんと書いた人がいない。他方、顧准を市場化の議論の先触れをした人物としてだけ紹介するのは間違いではないが、結果として、顧准が提起した、中国の民主化というより大きな問題を隠す結果になる行為だと私は批判的に考えています。
 福光 寛「顧准(グウ・ジュン 1915-1974): 生涯と遺著『理想主義から経験主義へ』」成城大学『経済研究』第222号、2018年12月、91-143
 他方で、顧准が書いたことを、日本のそれぞれの分野の専門家、例えばギリシャ・ローマ史の専門家がよむと、おそらくいろいろな問題が出てくると予測しています。それは現在の研究水準からみてからどうだとか、あるいは事実の誤認がある、これもあれも読んでいない、など。ただ大事なことが、忘れられています。顧准は誰にも頼らず冷え切った饅頭を手に、朝早くから北京図書館の開館を待つ行列にならび、終日一人で、膨大な範囲の文献の渉猟に取り組んだということです。専門家のご批判はあると思いますが、私は彼の知的な誠意をくみ取りたいと思います。なお対比の意味をこめて、「毛沢東の読書リスト」を以下に掲げておきます。毛沢東(マオ・ツェートン 1893-1976)を知的巨人と考えている人もいると思いますので、何が両者をわけるのか対比していただければと思います。
 毛沢東の読書リスト
   市場化の先鞭の議論の方ですが、今回の報告では、顧准の市場化の議論は、当時の政治家の議論をサポートするものにすぎないという点を指摘しました。当時、陳雲(チェン・ユン 1905-1995)、劉少奇(リウ・シャオチイ 1898-1969)、周恩来(チョウ・エンライ 1898-1976)は声をそろえて、社会主義化を進めた結果、中国社会に問題が生じていることを指摘していました。より本質的には、毛沢東自身が提起した新民主主義の段階(社会主義になる前の前段階)をしっかりと進む必要があったのに、毛沢東がその方向性を捨てて、社会主義化(生産手段、中国語でいう生産資料の所有制度の集団化、国有化)を急いだ点に誤りの大元はあったように思います。報告の中でご紹介したように、この新民主主義の段階があまりに早く閉じられたことが問題だったことを于光遠は指摘し、中国では一時大きな話題になりました。
 なお市場化の先鞭の議論としては顧准よりむしろ、陳雲、劉少奇、周恩来らの当時の議論がもっと読まれ検討されるべきである。日本でもっと日が当たってよいのは、新民主主義の徹底に、新中国の方向を探ろうとしていた、劉少奇の天津講話や、鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)四大自由論(これからお話する杜潤生の中で触れます)の方だと思っています。
    中国経済学史 前編
 劉少奇 天津講話 1949
 福光 寛「中国経済の過去と現在ー市場化に向けた議論の生成と展開」『立命館経済学』第64巻第5号, 2016年3月,  194-222
 福光 寛「鳥籠理論そして陳雲(チェン・ユン 1905-1995)について」
成城大学『経済研究』第214号、2016年12月, 37-72
 

最終回 杜潤生について
 杜潤生(1913-2015)
 最後に今日ご紹介するのが杜潤生です。中国農村改革の父とよばれる、杜潤生を紹介するにあたり、中国で書かれた中国経済学史において、杜潤生の名前だけでなく、農業経済学というジャンルが欠けていることがまず注意されます。(以下を参照。陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社,2004年張卓元等著《新中國經濟學史綱(1949-2011)》中國社會科學出版社,2012年。)
 そこから一つ伺えるのは、現在まで続く、中国における農業軽視の問題です。改革開放から40年が経って、確かに中国は豊かになったのですが、農村を中心に貧困の問題が残り、都市と農村の戸籍の問題、農村における社会保障制度の不備の問題など、農村には多くの問題が残されています。
 社会主義政権下で農村では、重大なことが起きました。まずは土地改革です。これは地主から土地をとりあげて、貧農などに再配分したことを指します。それから農業経済の集団化が行われました。そして改革開放期には逆に集団農業の解体が生じました。杜潤生はこの一連のプロセスに関与した人間の一人です。なお私は杜潤生の上司だった鄧子恢についてはすでに論文を発表しています。
 福光寛「農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)について」成城大学「経済研究」第218号, 2017年12月、451-491
 杜潤生の問題意識を見てみましょう。
    まず土地改革ですが、中国の土地改革が、法によらず地主から無償で土地を取り上げる形で行われたことが問題で、悪影響をもたらしたとしています。白石和良・菅沼圭輔・浜口義廣訳『杜潤生自述』農村漁村文化協会、2011年、pp.57-58  中国が法治国家になるうえで、このような形で土地改革をしたことは問題だったとしています。これは鋭い指摘です。なお、土地改革のプロセスで、多くの地主が人民裁判のような形で殺されたことも問題だと私はおもいますが、大衆の間には天下が元に戻り、復讐を恐れていたのだと、農民の心理を分析しています。同前訳 p.50  また地主階級出身者を土地改革後、長い間差別したことも人権に反しています。
 次に集団化ですが、これについては、集団化を急ぐ毛沢東と、土地改革後の農民を休息させようと考えた杜潤生とそしてその上司の鄧子恢との乖離は明らかです。二人は、土地改革のあと、農民は当然独立自主の発展を確保される、と考えていた節があります。いわゆる四大自由について、杜潤生はそれが大きな問題だとは思っていなかったというのです。同前訳 p.67, 73, 97ここに劉少奇が主張した、新民主主義を徹底するという考え方が生きていたことがわかります。
    そしてこの件で二人は毛沢東の怒りを買い、杜潤生は農業行政から遠ざけられます。それから20年以上の歳月が流れます。その間に、毛沢東はなんども、多くの人から、農業における請負責任制の素晴らしい効果について説明を受けますが、それでも請負責任制を拒否します。毛沢東は、所有制を変えると、生産力が高まるというように素朴に信じていたのではないか、と考えます。同前訳 pp.112-131
   これに対して杜潤生は、自留地が集団の経営農地の2倍以上の収量があることを見たことに強い印象をうけたとします。また「文革期」にはマルクスを改めて読んで、共産主義とは自由人の連合体だと言うことを学んだとします。(そのためには)人々が財産や権利をもち、自由交換を行う、そうした発展段階を経過することが必要。この段階を通り越して、一挙に公有制に移ると、主体意識および民主意識の成長はむつかしい、としています。同前訳pp.147-148 このような認識をもって、杜潤生は、改革開放後、農業政策分野に再び戻ることになりました。杜潤生は、公有からスタートすると、社会主義といいながら人々の自立性が損なわれると言ってます。これは同時に、独裁によって、社会主義を進めようとした、マルクス=レーニンの基本的命題の誤りをも正しく指摘しているように思います。顧准の場合は、社会主義革命後の社会の在り方として、民主主義の必要性を言っていましたが、杜潤生は過渡期の問題を含めて、人々が財産や権利をもち、自由交換を行うことが、社会結合の基礎になることを言っています。これは遡ると、合作化をすすめるときの自由意思尊重の問題に行き着くようにも思います。
 そこで請負責任制の導入に努力して成功したのは、別稿で述べたとおり。この点で杜潤生は、実務派の官僚として、成果を上げたといえます。
 杜潤生は請負責任制についてその後、こうした安上がりな方法はすでに使い切った。さらなる改革のためには、都市部の国有経済の改革、政治体制改革が必要だとしています。同前訳 p.184
   その後の杜潤生について、最初に述べたいのは、六四事件で趙紫陽を支持した少数派幹部の一人になったこと。また李鋭などとともに、民主的な言論姿勢で一貫していたことです。これで時間は一杯でしょうから、あとでご覧いただけるように引用を置いておきます。六四事件のあとも、このように民主的な発言を続けた人がいたということは、中国社会について、希望を残せる点です。今回はここまでとしたいと思います。
    中国特色社会主義 2008
 民主の次第の形成 2008
 公平に配慮せよ 2006/08
   中国政治の民主化 2006/02
 農民に国民待遇を与えよ 2001
   政治体制を創新せよ 2000

References
 政治経済研究所報告「中国経済学史を学んで」2021年6月21日

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