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朱嘉明《中國改革的岐路》2013年1月

ここでは朱嘉明(チュー・チアミン 1950-)の1950年出生から1979年までをたどる。朱嘉明 《 中國改革的岐路》聯經出版  2013年1月,16-30  文革のところ四三派ー四四派の分裂のところはわかりやすい(写真はNTTドコモビル 2019年11月30日)。以下は内容のあらすじである。

嘉明の先祖は清朝の役人だった。頤和園の建設に関係していたのでお爺さんは頤和園の中で育った。ただ文革のときに家譜にあたるものをなくしてしまった。父親が1913年生まれ、母親は1917年生まれ。二人兄がいて長兄は1935年生まれ,次兄は1940年生まれ。姉が1938年で嘉明は1950年うまれである。父は嘉明が4歳のときから外地で長期の仕事で不在勝ちだったので嘉明はもっぱら母親によって育てられた。

嘉明は北京の中心部で育った。景山前街一帯に自宅はあり、西に北海、東に景山、南が故宮。小学校の時、毎日北海と景山に行った。老舎が想北京で述べていることに共感している。

幼いとき長兄に連れられ北京図書館でのプーシキン朗読会に参加した。1959年初め長兄は、ハンガリー事件に関連して拘留され民警に自宅を捜査される経験をした。当時北京の高校生の間には政治やマルクス主義への不満がうずまいていた。次兄は蒙古工学院に進学したが、大飢饉の時代、一部の学生は食べられない不満から国民党の旗を掲げた。次兄は参加者ではなかったが、報告しなかったとして観察処分を受け、共産党青年団から除籍された。こうした事件は、兄たちの人生そして嘉明にも大きな影響を与えた。

北京市少年宮が自宅からとても近く、大変な競争ののちに試験に受かって少年宮で絵画,書法、囲碁などのサークルに入りまた大量の本を読んだ。少年宮図書館、北京西城区図書館、西四新華書店などで読書の習慣を養った。そして1964年に北京男十四中の初級中学に進学した。

進学すると半数以上の学生は小学時代に少年先鋒隊にすでにはいっており、共青団に続々加入、政治意識が高かった。幹部軍人農民労働者子弟の示す優越感に嘉明は無形の圧力を感じた。学校でも四清文献の学習が始まり、階級闘争といった概念を学習した。政治に関心をもてなかった嘉明は、絵画や詩を書くことは断念し学業成績に専念、飛び級に備えて数学の補習を受け、1学期のおわりには全科目で最優秀となった。

1966年6月。文革が始まって間もなく劉少奇と鄧小平が組織した工作組が北京の中学に進駐。この工作組に先立って各クラス各学年に文化革命指導小組が設けられ、嘉明は初2年級の文化革命指導小組組長に選出された。

間もなく毛沢東が湖南から北京に戻ると、出身の良い中学生による中学権力の統制が始まり、嘉明は組長を罷免され、長時間批判を受けた。北京四中や嘉明のいた十四中は血統論批判を掲げるがこの時点では、成立しなかったとする。

そして殺人が始まった。最初は四五十代の地主。運動場につれてこられ、批判闘争のあと、げんこつで殴られ、バットでなぐられついに動かなくなった。割れたガラスで皮膚が切り裂かれて死亡が確認された。これが最初の殺人だったが名前もわからないと嘉明はいう。そして武素鵬という名の学生は、老紅衛兵によって木製の銃で殴り殺された。その名前は王友琴の『文革受難者』に記録されている。

この時北京十三中は「抗日軍政大学附属中学」と改名され、労働者子弟が学校の臨時指導機構を作った。そして今度は高級幹部子弟が逆に攻撃をうけるようになり、また紅衛兵組織に参加していなかった中学生はそれぞれ自分の組織を作るようになった。嘉明も「黄河戦略大隊」を設立。独自の刊行物をもつ。ここで初めて「出版自由」を得たと嘉明は書く。

1966年末から1967年。ユラク遇羅克の出身論が中学文革報上に発表される。嘉明は紅五類(革命軍人、革命幹部、工人つまり工場労働者、貧農、下中農)でも黒五類(地主、富農、反革命、壞分子,右派)でもなかったので、血統論にはもともと反感あったとし、ユラクの先験性を評価する。太子党問題をみると、血統論はいまに続いていると。なお中学文革報はすぐに封鎖され、ユラクは逮捕。その後1970年に処刑された。

1967年に春に毛沢東は三七批示を出してすべての中学で軍事訓練を実施するとして、1967年3月北京の中学は軍が接収管理においた。と同時に老紅衛兵の収監者の解放が命じられた。このとき李鐘奇という司令が、高級幹部子弟の接遇を命じた講話が批判をよんだ。

この事態に中央文革小組は4月3日に人民大会堂で中学生代表を集めて集会を開き、李鐘奇を批判し、四三派が結成された。紅五類、黒五類でもない知識分子はこちらにあつまったと朱嘉明はいう。これに対して工農及び幹部の子弟は、翌日四四派を結成した。背景になにがあったか。中国は憲法上はあらゆる公民は平等だったが、実際は階級社会で、労働者や貧下中農が主人で、あらゆる場面で差別があった。

文革は1967年秋に至ると、大規模な上山下郷となった。当時全人口が7億、都市人口は2億。そのうち2000万の知識青年が農村にむかった。こうして文革は収束にむかうのである。

老三届とは1966年文革が始まったときに初一から初三、高一から高三、大一から大三だった学生をいう。1945年うまれから1953年生まれまで。十八大のあとの党国家指導者の主体はこの老三届である。

ここでまずチベットに行き、仏教に触れ、Voice of Americaを聞いている。しかし皮膚病にかかったことからチベットを離れて黒竜江に移っている。ここで1972年ソ連の政治経済学教科書批判の文章をまとめたことが評価され、師団の政治部勤務となり、八一農墾大学の文革により破壊されていない図書館で系統的な読書に励んだ。1975年冬、山東青山に移り、独力で中国社会主義政治経済学を書き上げた。これに自信を得て、1978年中国社会科学院第一回研究生試験に合格、そのあと朱嘉明は北京に戻り3年間の研究生生活を送ることになった。

中国社会科学院工業研究所に入った。工業研究所は1978年4月に設立したて。所長は馬洪。女性の経済学者で工業部門の専門家である陸斐文、1950年代の経済計画に参加した経験のある朱鎔基がいた。授業は北京師範大学の事務室を使って行われ、周揚、孫冶方といった有名人も講師として来校した。朱嘉明は1979年夏には早くも最初の論文を発表。1979年に国務院が作った経済改革研究小組の一つに参加した朱嘉明は、次第に自身の意見を表明するようになった。こうして朱嘉明は若手の経済学者として、実際の経済改革過程にすこしずつ実際に加わり始めた。

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