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水天宮(すいてんぐう)

 安産祈願で有名な水天宮が建て替えられ5年経った。水天宮の竣工は平成28年2016年2月のこと。工事を請け負ったのは竹中工務店で、建て替えの理由としては、江戸鎮座200年(2018年)の記念事業、そして免振構造化があったようだ。MENSHIN 2016年10月号
 今現地を訪れて思うのは、建て替えも悪いことではないなということ。建て替えにより敷地の形状や周辺の変化を考慮して、社殿の雰囲気を整えることができると感じた。おそらく少し上に上がる構造になっているのが、良いのだろう。角地でビルに囲まれていない土地の形状も幸いして清潔感のある神社になっている。
 しかし他方で昔の風情が失われたとの意見もあるようだ。ただこうして建て替えられたことで、この神社はモダンになり、若い世代にも歓迎されているように見える。結局、これからの世代を相手にするなら、建て替えも一つの選択肢ではないか、とこの神社を見て感じる。
 (複数の指摘があるのは社殿が高い位置にあるのに、エレベーター設置場所が分かりにくい問題。エレベーターは石階段の右側にある。ベビーカーで参拝される方や高齢の方が多いことを考えると、エレベーターの案内が不十分であることには疑問を感じる。事故が起きてからでは遅いのではないか。)
 この神社の祭神の筆頭は、久留米藩主の祖である有馬豊氏が崇信した有馬神社の祭神である天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)。天御中主大神は、神々の祖先神とされる。つまりすべての始まりに現れた神様である。
 そしてもう一つの淵源は筑後川河畔にあった尼御前神社。久留米藩を拝領した有馬家は、尼御前神社を水天宮と名を変えて社殿を造営した。そのとき、祭神に有馬氏が崇信する天御中主大神がまず祀られることになった。
 しかしもともと、尼御前神社は壇ノ浦の戦いのあと、当地に落ち延びた女官伊勢が平家一門の御霊である、安徳天皇、建礼門院(安徳天皇の母である徳子)、二位の尼(平時子 つまり清盛の妻である)の三柱を祭ったものを、後世の人がそう呼んだということであろう。そこで水天宮はこの三柱を合わせて祭神とし、四柱の祭神を祀る神社となった。有馬氏が神社の名称を水天宮としたのは、筑後川の河畔にあったことからすれば、統治にあたり治水・豊穣を祈るという意味ではないか。
 一部の解説には、水天宮には壇ノ浦で入水された安徳天皇が祀られ、安徳天皇は水の神、子供の守護神であるとして、水天宮を紹介するものがある。安徳天皇も祀られているので、確かにそれも間違いではないが、正しくは祭神は四柱である。
 この水天宮が文政元年1818年に芝赤羽橋の久留米藩有馬家上屋敷に分霊され、明治4年1871年に青山、さらに明治5年1872年に日本橋蛎殻町(現在地)へと(有馬家の移動に伴い)移転し現在に至っている。安産祈願の神社として多くの人の崇敬を集めている。
 なお藩邸内の神社ではあるが、庶民の信仰が集め投げ銭をされるなどの行為を受けたことから、毎月5日開門して参詣をみとめた(情け有馬の水天宮)とされる(開門には幕府の許しも必要だったと思われる)。そのことは現在に至るまで、毎月5日が水天宮の縁日となるいわれとなっている。安産祈願と当社の結びつきについては諸説がある。祭神に幼くして亡くなった安徳天皇を祀ることとの関係を述べるもの。水天宮なので水分神(みくまりのかみ)を祀っており、それが御子守(みこもり)に転じたという人。なお、御子守帯(みすずおび)の伝承が、水天宮HPには書かれている。いずれにせよ、多くの人の崇敬を集める神社であることに変わりはない。
 アクセス 半蔵門線水天宮前下車徒歩5分(地上出口出てすぐだが、ちょうど神社の背面にでてしまい神社入口は反対側なので少し戸惑うことになる。既述のエレベータの位置も含め、標識や地図が整備されてもいい。入口は少し歩けば分かるだろうという神社側の姿勢が気になる。)
 

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追加。以下は2023年1月5日の初水天宮にて。


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