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中国:抗戦前の銀行(1927-1938)

   戴建兵 等《話説 中國近代銀行》百花文藝出版社2007年,291-297(写真は2019年8月 瀋陽にて)

 1927年から1938年は中国銀行業の第四期である。これは国民政府が国家銀行体系を建設(建立)した時代であり、国家の金融業に対する統制を強化するために、この期間に国民政府は前後して二度にわたる改元と法幣政策と2大金融法令を公布し、これにより強力に幣制改革を通して中国銀行業を強化した。古い伝統的銭庄は消滅し、政府は官商合弁銀行資本などを増加するこの方式で、中央銀行を中心(首)とし、中国銀行、交通銀行、中国農民銀行とさらに幾つかの政府が統制する中小商業銀行を補とする体系的銀行ネットワーク(網絡)を建設し、国家の金融の命脈を掌握した。

   光緒二十三年から宣統三年までに、中国には5つの商業銀行が設立された。民国元年から民国十一年までには36行、民国十二年から十八年には20行、民国十九年から二十六年までには57行、設立された行数からすると国民政府の時期は中国商業銀行の猛烈に発展した時期(發展最為迅猛的時期)である。抗日戦争前において、中国商業銀行の分布はかなり集中しており、上海はもっとも密集しており、江浙、平津、広州は近代中国の商業銀行網を構成していた。本国(中国)銀行業が強盛になるにしたがって、とくに政府の銀行業全体への統制が強化されるとともに、外国銀行の勢力はこの時期に大いに弱まった。

  1927年国民政府成立後、中央銀行創設が着手された。当時国民政府の政治は始まったばかりで、財政は困難であった。もともと広東の国民政府が始めた中央銀行を南京の新たな国民政府の中央銀行としたが、広東の中央銀行の資力は薄弱で、発行される紙券に信用は全くなかった。たとえ割引で出しても行使はむつかしかった。国民政府も投資を拡張する力がなかったので、やむをえず、中国銀行を新政府の中央銀行に改組しようとして、中国銀行の多くの商股(企業株主)の抵抗と反対に遭遇した。そこで1928年から国民政府は自身の中央銀行設立に着手した。1928年10月5日、国民政府は19条からある「中央銀行条例」を公布し、中央銀行の基礎を確立した。半年の準備を経て、同年11月1日中央銀行は正式に上海で開業した。

 中央銀行の成立には深い国際的背景がある。歴史上からみて、中央銀行は政府と深い関係をもつようになり、政府の統制を受けている。しかし金本位制が解体し、とくに20世紀の30年代の世界経済危機のあと、国家の中央銀行への統制は明らかに強まった。第一次世界大戦が勃発(爆発)したあと、各国は銀行券の金貨との兌換を禁止し、併せて金の輸出を禁止した。戦争の間、各国は変動相場制(自由浮動制度)を採用し、為替相場の変動(波動)は激しく、国際貨幣システムの安定性はもはや存在しなかった。このことは世界的金融恐慌と、深刻な通貨膨張を引き起こし、各国政府はただ中央銀行を通じることで貨幣に対して有効な管理をできることを認識した。1920年に国際連盟が主宰したプロジール国際金融会議は、現代金融経済が中央銀行制度を実行する必要性を明確にした。まだ中央銀行を設立していない国家はすみやかに中央銀行を設立するべきであり、すでに中央銀行を設立している国家は、さらに中央銀行の作用を今一歩発揮させるべきである(とした)。ここに各国が中央銀行を創業する最初の盛り上がり(高峰)が生まれた。1930年にスイスのバーゼルに国際清算銀行が設立され、各国の中央銀行にその国の金融機構の代表となることを求め、国際協力を強化した。金本位が放棄され、金の自動調節経済メカニズム(運動)が放棄されたことは中央銀行制度を必然的に生み出すことになった。古くからのブランドである(老牌的)イングランド銀行の創設と発展過程を教訓として(可資藉鑒)、多くの国家の中央銀行は政府の力で直接法律上明確な権利を責任を持った特定機構とされた。第一次世界大戦が終わったあとの1921年から第二次大戦中の1942年までの間に、世界各国で改組あるいは設立された中央銀行は43行、そのうち欧州が16行、アメリカで15行、アフリカが2行、オセアニアが2行である。主要国で中央銀行が設立されたのは、ソ連が1921年、オーストラリアが1921年、チリが1926年、中国が1928年、トルコが1931年、インドが1935年、アフガニスタンが1939年、アイルランドが1942年である。

 中央銀行が設立された後、国民政府はただちに中央銀行が享受すべき特権を中央銀行に授けた。中国、交通の両行が分担管理していた国庫の経理、国内外の債券の募集などの特権はことごとく中央銀行が行うこととなった。

   1928年10月と11月、国民政府は《中国銀行条例》と《交通銀行条例》とを相次いで生み出し、両行の改組を進め、中国銀行を国際送金支払(匯兌)銀行として、交通銀行を中国実業銀行として発展させようとした。その方法は(1)移転。1928年に国民政府は中国銀行、交通銀行の総管理処を北京から上海に移転させた。その目的は近いほうが統制に便利だったからである。(2)降格。両行の章程を修訂し、中国銀行は、国際匯兌銀行だと規定した。(もともとは)政府の委託により、国庫の一部を代理し、兌換券を発行する。内外の債券の募集を行い、金銀外国為替を売買していた。交通銀行は全国実業銀行として発展されることになったが、(もともとは)政府の委託により、国庫を代理し、兌換券を発行し、交通事業公債の収付などをおこなっていた。両行のもともとの特権ははく奪された。もともと国家銀行は専業銀行に変えられた。(3)入股。何回かの買い付けを経て、1935年までの中国銀行の株主構成は官商半々になった。交通銀行は官三商二になり、等しく国民政府の統制をうけるようになった。(4)改組人事。政府が派遣する董事,監事の数が増え、宋子文は中国銀行董事長,交通銀行董事長に任ぜられ、総経理もまた宋が信頼する人(親信)だった。

  このあとも中国銀行の名義上、外国為替を管理(経理)する特権を保つが実際は外国為替管理権は中央銀行が扱うところで、中国銀行はただ海外華僑の外国為替業務を扱っていた。1946年以降、国民政府が中国銀行を再改組したとき、それは全国貿易銀行に発展された。

 1934年4月国民政府は中央銀行の実力を増強するため、資本増加案が国民政府行政院の議決を得た。同行の資本総額は2000万増加され、1億元とされ、その年の終わりにはこの数を満たすに至った(如數拔足)。

   中央銀行設立当初、紙幣流通量と信用の上で古くからのブランドである官商合弁銀行―中国銀行と交通銀行にはかなわなかった。この両行は中国金融界と企業界二おいて、依然強大な影響力をもっていた。そこで国民政府は、次第に次のような措置をとった。中国、交通の両行を国家の直接管理範囲に力で組み入れることをできる限り追求するという措置。1928年11月17日,国民政府はまず中国銀行を改組し、同時に交通銀行の改組を始めた。両行の総管理処は北京から上海に移ることを強制され、併せて統制のため官股が増加された。1934年までに両行の資産合計は両行の資産規模は中央銀行資産の3倍であった。1935年3月、国民政府はまた、中国、交通両行の官股を増やしそれにより、両行が”中央との合作に”かかわらない態度を”断然矯正し”、”三行が中央の指令に絶対に従う”ようにした。3月28日中国銀行は再び官股500万増加を強制され、もとの500万と併せて商股と等しくなった。交通銀行では官股が1000万股増やされ、もともと保有していた200万に加えて1200万元となり商股を上回った。全株数の5分の3である。このように中国、交通の両行は国家に直接統制された国家銀行の系列に編入せられたのである。

 1932年11月国民党の第三次包囲殲滅(圍剿)が失敗したあと、第四次反革命圍剿の準備として、農村金融組織が積極的に準備された。蒋介石は豫鄂皖(河南ー湖北ー安徽)三省の討伐本部(剿縂)の名義で《匪區内各省農村金融救済条例》を公布し、併せて剿縂内部に農村金融救済処を設け、豫鄂皖三省十五県に分処を設立した。1933年春、国民党の第四次反革命圍剿が失敗し、第五次反革命圍剿の継続発動のなかで、1933年3月正式に豫鄂皖贛(河南ー湖北ー安徽ー江西)四省農民銀行が設立された。1934年10月中国工農紅軍の戦略的大転換(転移 移動?)に伴い、蒋介石は”ただ四省だけに農民銀行が存在するのは十分でない”と感じて反共の必要に応じて、紅軍の長征の道には必ず機構を増設するとして、名称を変更した。すなわち四省農民銀行は中国農民銀行と改名、1935年4月1日に正式に設立された。資本総額は1000万元、払い込み済資本は500万元、官商各半。中国農民銀行は国民政府のその統治を維持する重要な財政支柱であり、国民政府が統制する四行のメムバーの一つである。

 中央銀行はその成立したその日から、国民政府の重要な支柱であり、国民党政府の統治の維持に特殊な作用を及ぼし始めた。国民政府が中央銀行職能に不断の努力をし、民国時期の中国幣制の発展を推進し一定の積極的作用をしたこと、このことを我々は十分肯定すべきである。

 地方銀行の方面では、北伐戦争中、一部の地方銀行は業務を停止しあるいは改組された。・・・改組され国民政府地方部門が管理する省銀行となった。・・・あるいは・・・このような地方銀行は国民政府の強力な関与の下、政府統制のもとに地方銀行システムを形成した。

新中国建国以前中国金融史

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