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胡耀邦 中共中央の延安への移動と抗日大学一期生としての学習 1937

   胡耀邦伝 人民出版社2005年 63-86
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015  66-79
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 84-98
   (写真は成城大学3号館 2019年9月6日撮影)

  1935年12月。中央政治局は東征山西戦役を起こす方針を決定する。1936年2月毛沢東が総指揮、彭徳懐が副指揮を東征軍(中国人民紅軍抗日先鋒軍)の先頭部隊は、雪が降る夜、黄河渡河を実行しようとした。このときは流れの速さにあきらめるが、2月20日夜、ついに渡河に成功。主要な船着き場を占拠。胡耀邦もこのとき軍に従い工作隊を率いて石楼県に入っている。土豪や地主の土地財産を奪って、その一部を現地の貧しい人々に配り(富農、小地主,商人の土地財産には手を付けない)、併せて教育宣伝を行い、紅軍への参加をよびかける(すでに閻錫山は大量の反共文書を配布していた)。この活動中、胡耀邦は発熱や下痢で体調を崩したが、医者の派遣を得て持ち直した。こうした胡耀邦の活躍は毛沢東の耳に入り、ここで胡耀邦は初めて毛沢東からの接見を得ている。3月下旬、地元の軍閥閻錫山そして蒋介石の連合軍は、猛烈な反撃を開始する。かくして紅軍は西に戻ることを決断。5月2日には黄河を西に渡河する命令がだされる。

 1935年から1936年。少共という言い方が減り、共青団と言い方が増え、胡耀邦は共青団中央局の組織部副部長、さらに組織部長となった。こうしたなかで、共青団自体の改造が日程にあがるようになった。その結果、1936年11月1日に青年工作に関する決定と題した文書がだされた。まず共青団を非党員青年組織を糾合する組織とし、民主共和国のために闘争することを中心任務とする広大な青年運動を建設するもの・・とし、国民党地区の共青団組織は取消し各地の団員は合法・公開の青年組織に加入する。団員を大量入党させる。入党しないものは支部周囲の積極分子として、団員とはしない、などの方針を定めた(これはおそらく共青団と共産党とが組織形態が二重化してきた矛盾を解消するためであろう。)。ここで共青団中央局が正式に廃止されている。
 1937年4月。中共中央は青年部、のちの中共中央青年工作委員会を発足させている。他方、胡耀邦はこのタイミングで抗大に学習へと派遣されている。(なおこの間に中共中央は1936年6月に瓦窯堡ワーヤオバオから保安に移動。さらに1937年1月には延安に移動している。)

 1937年。党中央は保安にあった「中国紅軍大学」(1936年6月開学 学習期間は6ケ月 一部は9ケ月から1年 学員1065名)を、「中国人民抗日軍政大学」(略称抗大)と改称して延安に移転することを決定した。その教育委員会主席は毛沢東、校長は林彪であった。1937年3月2日開学。胡耀邦はこの大学の最初の学習隊(学員1362名)に選ばれ、かつその党支部書記に選出された。ここで毛沢東は自ら「中国革命戦争の戦略問題」などについて講義を行った。開学時に議論された問題に張國燾の南進主義の扱いがあった。胡耀邦はここで、分裂主義に反対し、毛沢東の北上抗日の方針を支持する立場を鮮明にした。またこのとき、胡耀邦はマルクスレーニン主義の古典を大量に読む機会をえた。7月の卒業を前に多くの学生は前線に招集されたが、胡耀邦は選抜された28名の一人として、高級研究班で学習を継続(7月7日盧溝橋事件起きる 8月1日第三期の学員1272人 多くは各地から入ってきた知識青年)。同年秋、毛沢東自身の推薦により抗大政治部副主任兼党総支書記を担任した。
(1937年9月 毛沢東は胡耀邦から学生の多くが組織規律観念が希薄であるとの報告を受けて「自由主義に反対する」という文章をまとめている)

1938年4月、第四期の学生は5562人。大半は各地からきた知識青年だった。延安での受入は困難であったため、周辺に散らすことになり、胡耀邦は率いる第一隊は、瓦窯堡米糧山に移ることになった(瓦窯堡は延安から90キロ離れていた)。移動しようと集まっていたところに、現れた毛沢東は、学生たちに、張如心とならべて政治委員胡耀邦を学生たちが学ぶべき先生として紹介している。確かに胡耀邦は知識青年たちに講義もしたであろう。胡耀邦は正規の教育を受けた時間が短いことを自覚して、広範な読書を行ったほか、知識分子の人たちと率直に交流し教えを請うた。指導者のようではなく友達のようであったとされる(このような形での知識人との交流が後年能力胡耀邦の知識人を大切する態度につながったのではないか?また考えたいのはこの「大学」でどの程度の学習、知識の習得が可能であったのかである。十分な基礎教育を受けずに戦士となった青年と、知識青年との間では大きな学力差があったと思われる。そこをこの「大学」はどのように克服したのだろうか。知識青年はこの「大学」に満足できたのだろうか。この「大学」での学習期間は基本は半年、最大で1年。教室などの設備、毎日の時間割、教員の体制、教材・講義録などが判明しないものだろうか。以上の点は関係者の記録から導けるように思えるので、追って調べてみたい。)。

 1939年3月、第五期第五隊が瓦窯堡(ワーヤオバオ)に現れ、胡耀邦は交代に第四期第1隊を引き連れ延安に向かい、新たな仕事を得た。毛沢東の指名により中央軍事委員会総政治部組織部副部長に任命された。総政治部主任は王稼祥、組織部長は為方強であった。

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