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劉国光(ソ連留学 1951-55):官学難以兼得 張曙光

張曙光《中國經濟學風雲史   經濟研究所60年》八方文化創作室, 2018,pp.1095-1148  esp.1095-1097 (明らかに張曙光は劉国光を官僚学者になり下がったとして嫌っている。劉国光(リウ・グオグアン 1923-)は、董輔礽と経歴は似ていて、国民党統治下の中国の大学で西欧の経済学にまず触れたうえで、新中国になってからソ連留学の機会を得ている。当時はそれが最高のエリートの道だった。文革中の挫折、改革解放後の活躍も同じである。ロシアでマルクス経済学の教育を受けた彼らが、改革開放後の中国経済学界をどのようにけん引したかは、大変興味深い。張曙光による劉国光批判の妥当性については、立ち入らない。劉国光と董輔礽の対比についても今後詰めてゆきたい。ただ劉国光は董輔礽に比べ4年年上である。ロシアには1年早く1951年に行き、帰国は1955年で2年はやかった。これらの違いだけをここではとりあえず記録しておく。劉国光と董輔礽の二人が展開したと、張曙光が述べている「中国経済成長論」についても今後の研究課題としておきたい。訳注)

p.1095  劉国光は中国の重要な経済学者である。かつて中国社会科学院の副院長と経済研究所長とを兼任し、現在は中国社会科学院終身顧問(中国社会科学院が終身顧問に任命したのは、錢鈡書と劉国光の二人だけである)である。中国経済学傑出貢献賞(中国のノーベル賞に擬せられるが選定における問題から初回の選だけにとどまる。獲得者は、薛暮橋馬洪,劉國光,吳敬璉の四人)の受賞者、改革開放中、突出した表現で、中国経済学研究の発展に重要な影響を与えた。人々は「経済学大師」と呼んだ。「門人を得た穏健学派の改革者」「そのマクロ経済の決定された策略そして国家の大きな政治方針(大政方針)の確定方面で卓越した貢献があり、政府方面(官方)の権威ある経済学者の称号を享受しており」「現代中国で最も影響力のある経済学者」である。劉国光の本当の理論貢献は詰めるとどこにあるのか?不足しているところは一体どこにあるのか?これらの称号はどのような意味で妥当する(相匹配)のか?これは真剣に弁別分析すべき(需要認真辨析的)問題だ。
   劉国光は複雑な人物だ。彼は政治に無関心な学者から、権勢をふるう学者官僚(一個獨霸一方的學官)になった。今世紀の10年代半ば、中国の大地を横殴りの「劉旋風」が巻き起こった。学術研究単位の指導者として、彼は経済学研究と政策聞き取り(詢問)工作をいかに組織指導しているか?一人の学者として彼はまたいかに理論研究工作をしているか?一人の官僚として彼は上下左右に接しているか?我々は
p.1096  分析と回顧を通じて、 劉国光の理論観点がいかに発展したか、彼の学術道路がどのように走ってきたかを示したい。現在の体制のもとで官と学の二つに身をさらすことは、得るところがあるかないか? (中略)
 (生涯の短い紹介)劉国光(1923-)
    1923年11月23日、劉国光は南京市下関のある職員家庭に生まれた。父劉致和は輸出入業をする和記洋行の中層職員であり、母姜淑蘭は勤勉で、悪意のない、心豊かで他人の境遇に関心を寄せる女性であり、家にあって夫を助け子供を教えた(相夫教子)。劉国光は就学の前には私塾に行き、6歳で学校に入った。中学のときは抗戦時期であり、生活は困難で四方をさまよった(顛沛流離)。まず南京の江寧中学で学び、のちに合川県の專為收容逃亡學生的國立第二中に進学し、路翎と同じクラスになった。よく学び純粋であり、学業基礎はしっかりしていた(比較扎實)。
    1941年9月、劉国光は優秀な成績で西南聯大法学院経済系に入学、経済理論を学習研究する人生を開始した。学校では、陳岱蓀,趙乃摶,徐毓丹(木片に丹 だが活字なし)らが 
p.1097 講義する《財政学》《経済学原理》そしてケインズの《貨幣通論》などを聞き、現代経済学の基礎を学んだ。1946年8月に彼は徐毓丹の提案で、清華大学の大学院生に試験を受けて合格するが、家庭の経済困難が彼の学習の継続を支持できなかったので、南開大学で助教と経済研究所資料員に就任した。この時、彼はハロッド、カッセルなどケインズ後の理論を学習した(ここでハロッドは良いとしてカッセルをケインズ後の理論家に上げているのはよく理解できないが、とりあえずそのままにして先に進む。訳注)。1948年9月に劉国光は結婚し、南京にもどった。(そして)陳岱蓀の中央研究院社会科学研究所の研究員助手かつ現金出納担当となり、ここから理論研究の道を歩み始めた。
 1950年に陳岱蓀と南漢宸を主査として、組織の推薦と厳格な試験を経て、劉国光はソ連留学予備生の試験を通った。これは全国第一期ソ連留学生であった。1951年8月ソ連モスクワ国立経済学院に到着し学習した。ソ連の経済学者ベチエークについて経済学副博士を取得、彼のマルクス経済学の基礎を固めた。彼の学位論文は《国民経済平衡中の物資平衡の作用を論じる》でその内容と詳細なまとめは《劉国光文集》第1巻に収められている。
 1955年に劉国光は学位をえて帰国。中国科学院経済研究所に戻った。まずソ連の専門家ビーエルマンの仕事を助け、その後研究所で学術秘書、研究組副組長となった。1960年代前半の孙冶方が(研究所)を担当していたとき、劉国光にはゆるやかな学術環境が与えられた。彼は精神を集中して(專心致志)真剣に読書し考え、孙冶方の《社会主義経済論》の研究討論に参加し、多数の研究成果を発表した。とくに社会再生産領域では大きな進展があり、董輔礽とともに「中国経済成長論」の代表と称された。経済研究所の”四清”と文化大革命中は攻撃を受けた。
 改革開放以後、劉国光は率先して伝統経済体制と伝統社会主義経済理論に対する批判を提起した。趙人偉と共著(合作)《社会主義経済中の計画と市場の関係を論じる》の名編を発表した。改革理論の探索と、改革実践の発展を推進した。1982年に劉国光は思いがけず、中国社会科学院副院長兼経済研究所所長に就任した。あわせて中共12大中央候補委員になった。これは彼の人生の頂上であったが、同時に彼は次第に変化を始めた。この後、彼は一面で研究執筆を継続、別の一面では官職に混じり、形勢の変化とともに地位は上昇した。学術の観点はただ繰り返すだけで公然たる後退(公開倒退)さえするようになり、官僚の作風や習慣(習氣)を学術の場に持ち込み、学術官僚の道を歩んでいる。
 (以下略)

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