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郭運恆「魯迅,胡適の政治観」2007

郭運恆《魯迅,胡適政治觀之比較》載《魯迅與胡適》綫裝書局2007年pp.131-143 こうした胡適の闘いを、日本人の知識の中に取り戻すことが必要であろう。また一般の中国の人はどの程度、この話を知っているのだろう(写真はヤマアジサイ)。

p.131  魯迅と胡適はかれらの家庭出身、学問を求めた背景、気質性格などの方面がすべて違うが、当時の社会が大変革、不安定さ(大動蕩)、中華民族が生存と発展の極めて困難な時期に直面していたなかで、彼らは良心溢れる知識分子として、政治から離れなかっただけでなく、民族命運を救うという大きな任務を自己の責任として負担した。彼らは異なる視角から異なる理念を表明した。彼らの政治関心と主張は、基本的にあの時代の知識分子の民族、社会に対する社会に対する強烈な責任感を代表している。彼らの政治態度を研究討論(探討)することは、現代の知識分子がいかに政治に参加するか(如何參政議政)、思想をもって国家の現代化建設に参加する、などにとって、重要な現実的意義がある。

 全体としていえば、魯迅と胡適はともに中国伝統の士大夫(封建時代の官僚階層、しばしば読書人の意味)の世の中に出て献身しようとする感慨(入世情懷)を持ち、同時に現代知識人の民族を危機から救わんとする現実責任感を備えている。
 魯迅は《私は如何に小説を始めたか》において、つぎのように言っている。「中国では、小説は文学だとされていない。小説を書くものは文学者をなのることはできない。そこで小説を書く方法で世の中に出ようとするものもなかった。私は小説を「文苑」中に持ち上げようとする意志はない。ただ社会改良に小説の力を借りようとおもったのである。」(中略) 
p.132 一般的に言うと、胡適は「政治工具主義者」である。彼は一度ならず政治を語らないと表明したが、生涯、政治から離れたことがなかった。彼は何度も学問をする決心をせねばならなかったが、しかしいつも現実に誘惑されると、今一度政治の渦(漩渦)に入っていった。このことについて、自ら注目に値する表明をしている。「4年の戦時、駐中国駐米大使に任ぜられたほか、私は実際の政治に参加することははなはだ少なかった。私は政治に対して私が言うところの、愉快でない関心(不感興趣的興趣)をとった。私はこの種の関心は社会に対する一人の知識分子として保有すべき責任だと考える。」胡適の一生は、自由主義の旗幟を高く掲げ、米国式の民主政治を信仰し、各時期においてすべて独創的政治設計と独創的見解を有した。20世紀20年代、様々な主義に引き回される必要はないと国人に慎重になれと警告した(警惕)「問題を多く研究して、主義については少なく語ることです」。1930年代彼はどの党派に頼ることなく、どの見方に盲信することもなく、自らの責任で「独立評論」を発表した。20世紀40~50年代、彼は言論の自由を追求「反対党」の生存権利を積極的に主張し、野党の身分で当局の言論に多くの批判を加えた。胡適は終生自由主義の理想を持ち、自由主義知識分子の独立人格をもって、全独裁社会に対抗(抗衡)した。(中略)

p.133 魯迅の政治観については、既存の分類に区分することは実際困難である。魯迅は明らかに無政府主義の思潮の影響を受けている。しかしぴったり(夠格)無政府主義者だということはできない。かれは実際無政府主義の信奉を宣伝したこともなければ、無政府主義の思想、観念を積極的に正面から宣伝したこともない。おおよそ次に様に言える。いかなる政治理論もすべて魯迅を心服させることはできなかった。いかなる国家を治める政治理論もみな大きな関心にはならなかったと。これは魯迅が「政治」そのものに深く懐疑的だったことによる。

p.136  通常胡適は「良い政府主義(好政府主義者)」だと皆が言うが、実際はまずは「有政府主義者」である。「良い政府」は「ダメな政府」の反対語である。しかしもし「ダメな政府」さえなければ社会は「無政府」状態に陥る。「良い政府」の議論もできなくなる。このような状況の下では、まずは「政府」を設けるのが先である。すなわち「有政府」の反対語は「無政府」になる。(中略)
 もしも魯迅が多少「無政府主義」の色彩があるなら、胡適は絶対的に「有政府主義者」である。(中略)胡適の意見では、政府の形式の違いは大きい、「良い政府」を作り出すことこそ重要である。

p.141 「合作」は手段であり「改造」が目的である。「対抗」がなければいわゆる「改造」もない。それゆえに政府に対してこの工具のいわゆる「改造」のために、胡適の一生はすべて蒋介石と国民党政府の「諍友」であり、「合作」の面があり同時に批判(批評)の一面があった。1929年の「人権運動」中、胡適は、名前をあえて挙げて(指名道姓)蒋介石を「党をもって政治に代えた」違法行為を批判し、国民党内の人々から「反革命」「反党」「帝国主義の犬」だとみなされる集中攻撃(圍攻)を受けた。又そのほかの人たちからは、その挙動は大きな努力にケチをつけたもの(小罵大幫忙)と誤解された。1938年ただ前に進む人(過河卒子)として胡適は抗戦時期の国民政府駐米大使として、中国民族の抗日戦争勝利のため大きな貢献をした。・・・新中国が成立すると胡適は米国に出国し、彼の民主政治の見解、主張が蒋介石とは完全に異なっていたが、それでも蒋介石の政府を民主政治に大きく歩みだせるように心を砕いて協力した。1952年9月14日国民党が大会を招集したとき、胡適は蒋介石に手紙を書いて、民主政治制度改革の実行を勧告した。「1.民主政治は必ず多数の政党が並立する基礎の上に建てられねばならない。憲法は四五年来、その立法の基礎を未だ樹立できない。それは国民党が未だ「党内無派、党外無党」の心理習慣を放棄できないことにある。2.国民党は総再生を廃止すべきである。3.国民党は自由分化してよい。独立したいくつかの政党とする。4. 国民党は言論自由の精神培養を誠心誠意培養することに努めよ。言論の自由は憲法上の空文句ではなく、政府と国を担う党はすべての具体政策批判を明白的にかつ積極的に必ず容認すべきである。併せて、孫中山、蒋介石であれ、三民主義、五権憲法であれ、全てが批判の対象になりうることを必ず表示すべきである。(今日の憲法にはこの種の問題がある。国民党によって、現在我々が、たとえば国民退会制や五権憲法のような孫中山のいくつかの政治主張を批判することは許していない。)5. 当時国民党大会開かれたとき、おのれの罪を解剖できなかった。国民党は己の罪を責めるべきで、私は公に自ら罪を認めねばなりません。自らの罪を認めるほど、ますます国人の許しを得られるであろう。しかし己の罪を責める話は単に党員にだけ聞かせるのではなく。全面的に人民に聞かせねばならず、内地の人民に聞かせねばならない。」1959年末に胡適は、蒋介石を来るべき総統選挙で連任を放棄することを提案した。というのはそれは「中華民国憲法」に違反するからである。11月15日、胡適は張群を通じて蒋介石に何点か建議した。「来年2-3月、国民大会の間、
p.142   「1. 中華民国の憲法は試験を受ける時であり、軽々しく誤らないこと。2. 国家の長久を考えて、私は蒋総統が国家に「合法的」和平的に政権を移す気風(風範)を与えられることを期待したい。憲法に違反せず、憲法に依拠することは「合法的」である。3. 蒋先生のこれから長い間の名声を考えて、私は先生がこの1ケ月のうちに、公開の表示をされて、第三期総統を務めないと明白に宣言され、慎重に考慮した後任者を全力で支持援助すると宣言されることを期待したい。もしそうするなら、私は全国の人そして全世界の人が、尊敬と敬服を示すと信ずるものである。4.もし国民党に別の主張があり、公明正大に宣言でき、現在の新聞紙上の「勧告電報」は用いないことは確かだとする。このやり方は、蒋先生にとり一種汚辱であり、国民党にとっても一種汚辱であり、我々一般人にとっては一種侮辱である。」蒋介石は胡適の建議を全く聞かず、1960年3月に中華民国総統の第三期に連続就任した。胡適は当然失望し、遺憾であることを漂わせて述べた。「私はただ自己の責任感に頼り、公民としての責任を尽くしただけである」。次のように言える。1927年に南京政府が成立し、1962年に胡適が世を去るまで、彼と国民党との関係は、全て「合作と対抗」を用いたものと概括できると。

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