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胡耀邦ー辞職から逝去までー1987~89

                            福光 寛 
 胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は総書記を辞職してから(1987年1月16日)亡くなるまで(1989年4月15日)わずか2年あまり。逝去はあまりにも突然だった。
 ただ彼は繰り返しての病歴や入院歴があり、身体は決して丈夫ではなかったことも事実である(胡耀邦の一生については「胡耀邦」参照)。
 その死を悼む群衆が天安門に集まったことが六四事件につながった。そしてその遺灰は1年半余りの時を経て江西省徳安県共青城の山中に葬られている(1990年12月5日)。
 胡耀邦逝去後の群衆の敬慕の動きが六四事件につながったことは、周恩来の死(1976年1月8日)を悼む群衆の動きが天安門に多くの群衆が集まる天安門事件(1976年4月4日)を引き起こし、「文化大革命」を収束させる発火点になったこととしばしば対比される。
 ところで胡耀邦については2015年11月に「胡耀邦文選」が人民出版社から発行されたほか、2015年12月には、2005年11月に1915-1976年までの部分だけが『胡耀邦伝』第1巻として刊行されたまま長年放置されていたのが、1989年の逝去までの事績を含む形で同じく人民出版社から『胡耀邦(1915-1989)』3巻本として刊行されるなど、明らかに再評価を公式に認める動きが進んでいる。
 胡耀邦再評価の動きは、総書記を胡耀邦同様に任期途中に辞めさせられた趙紫陽(チャオ・ツーヤン 1917-2005)が、なくなったあと10数年の時を経てなお、中国国内では全く再評価の動きがないことと、極めて対照的である。そもそも胡耀邦は、批判を受け入れて自己批判をする形で退任したのに、趙紫陽は、あくまで解職手続きの正当性を争った。この点が響いた可能性は高いが、胡耀邦は、亡くなったときなお、政治局委員、全国人代常任委員など高い職位にあり、中央政治局会議に参加しているときに倒れ亡くなった。公務中の死亡といってよいだろう。他方、趙紫陽は公職をはく奪され(1989年6月23日)、限られた外出はできたものの、厳重な監視のもとに置かれて事実上の自宅軟禁の末に亡くなった(2005年1月17日)。最近(2019年10月18日)、趙紫陽の遺灰が北京の民間墓地に埋葬されたと伝えられた。 
 以下ここでは胡耀邦の解職後を年譜で示したあと(年譜は『胡耀邦(1915-1989)』北京聯合出版公司2015年、そして滿妹『回憶父親胡耀邦』天地圖書有限公司2016年から作成)、その胡耀邦が政治局会議で倒れた日(1989年4月8日)について述べる。
 まず以下の年譜から伺えることは、政治の舞台から消えて隠遁する意味もあるかもしれないが、頻繁に長期の休養をとっており、体調が必ずしも万全でなかったように見えることである。

 1987年1月16日 中央政治局拡大会議 総書記を辞去 中央政治局委員 中央政治局常任委員の職務にとどまる
 1987年10月25日ー11月1日 十三次全国代表大会出席 中央委員に選出
 1987年11月2日 十三届一中全会出席 中央政治局委員に選出
 1988年1月 305医院に入院
 1988年3月―4月 七届全国人代出席 全国人代常任委員に選出
 1988年7月―9月18日 煙台で休養
 1988年9月26日―30日 十三届三中全会出席
 1988年11月10日―89年1月8日 湖南長沙休養
 1989年1月8日―3月12日 広西南寧休養
 1989年3月20日―4月4日 七届全国人代二次会議出席
 1989年4月8日 中央政治局会議に出席 午前心臓病を発症 午後北京医院に入院
 1989年4月15日朝7時53分北京医院にて逝去 享年73歳
 1989年4月22日午前10時 北京人民会堂で追悼大会 国家主席楊尚昆主持 総書記趙紫陽弔辞 参列4000余人

 つぎに胡耀邦が政治局会議で倒れた日(1989年4月8日)については、当日、政治局全体会議に出席していた、趙紫陽の政治秘書鮑彤(バオトン)の詳細な記述を利用したい。鮑彤《我看胡趙關係》在《趙紫陽的道路》晨鍾書局2011年,367-385, esp.382-384

    (胡)耀邦と趙紫陽についてとても関心を持たれているのは89年4月8日のことであろう。懐仁堂で中央政治局全体会議が開かれ、私は常任委員政治秘書として列席した。耀邦は楕円形の机の一方の先端に座り、趙紫陽は反対の先端にいた。開会してまもなく、耀邦は机に伏し、右手を挙げて言った。紫陽同志、私はここが(這裏)少し良くない、休ませてください。紫陽は言った、「あなたは心臓病ですか?」。耀邦は、言った。「昔は心臓に問題があるとは知らなかったが、(湖南あるいは江西といったがおぼえていないがそこに)出張したとき、そこの医者が私(耀邦)は・・・」。これが私(鮑彤)が聞いた耀邦の最後の言葉で、彼の病状はすでに彼が話終えるを事を許さず、彼はこの言葉を継ぐことがなかった。紫陽は中央弁公庁にすぐに医者を頼んだ。紫陽は言った、「耀邦同志、心臓病です。動かないで、話さないで、医者がすぐに来ます。」。紫陽が全員に聞いた、「誰か硝酸甘油をもってないか?」。江沢民が言った、「これまで硝酸甘油を持つことはなかったのだが、家内が持っていろと言うので、ここにあるが、使い方がわからない」と。ある工作員が、使い方が分かると言った。そこに中南海医務所の医師が到着した。北京医院の医師も向かっていた。紫陽が提案した、政治局は勤政殿に移り会議を続けます、懐仁堂を出た後の組織介護については温家宝に頼みます。1時間余り後に、温家宝が勤政殿に急いで戻り、耀邦は危機を脱したといった。この経過のなかで、耀邦が発病したとき、政治局会議の参加者のなかで、もっとも耀邦を心配(関心)したのは趙紫陽だった。
 4月15日のあの日、趙紫陽は耀邦が亡くなったことを聞くと、すぐに北京医院に行き、耀邦の亡骸を見、そして遺体に深々と拝礼した(鞠躬)のである。

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