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2.7 分岐の所在

p.63   1955年の事件は、「十月会議」の批判を経過して、農村で「社会主義高潮」が起こり、そして終わった。現在、我々は当時の歴史を回顧して、多くの要素が重なり作用したことをみいだすことができる。その中に鄧子恢と毛沢東、二人の性格の違いという要素、これはたしかに表面的に存在することだが、記述に値することだろう。
 鄧子恢は知識分子出身で、日本で学習の日々を過ごしたことがあり、かつて学徒であったし、店員であったし、民間の風俗情況をよく知っており、とても長い時間、旧ソビエト区で仕事をした。寛容(胸襟坦荡)で、親しみやすい人(平易近人)で年長の人に忠実であった(忠厚长者)。実際のことにあたっては、教条的なことは少なかった、おそらく仕事が忙しく読書は多くなかった、毛主席に対し尊敬したが、また個人崇拝はしなかった。50年代初めから、とても多くの人は毛主席が話した話や指示を一言も漏らさず書き留めて伝達するのが習慣だった。鄧子恢は完全な記録はまったくしなかった、ただおおまかに幾つかの言葉を書いて、要点をつかむことができた(能抓住要义)。思想的には無私で恐れを知らず、言いたいことがあると、黙っていることは少なかった。それゆえ毛主席は何度も言った。鄧子恢がまた私に教訓をたれたと!北戴河における中共八届十中全会において、鄧子恢は私に二時間話したので、私の頭皮が固くなったほどだ。
 あの日の夜(1955年8月)鄧子恢は毛沢東に会いに行った。もし話の中で130万社の計画を受け入れたなら、おそらく異なる状況があったろう。毛は興奮させられない人で、彼が進めることが大事だと考えることについて、誰かが進められないと堅持していうほど、ますます頑なに、逆の思考を強めるのだ。1955年のことは、一定程度は二人の個性の衝突である。しかしまた話を戻すなら、個性の要素は議論を遅らせたり早めるたりするだけで、さらに深いところにある二人の認識の分岐は解消するものではない。(二人の間の)議論は結局起こるべくして起こったのである。

農村漁村文化協会訳pp.100-105 最初に書かれているのは鄧子恢と毛沢東の人柄。鄧子恢はあけっぴろげで近くづきやすい、思想的に無私で何も恐れず、毛沢東への個人崇拝はなかったとする。他方毛沢東は受け身になれない人間で、できないと言われるほどその意見を信用しなかったとする。

次に毛沢東の数字を割りあてる手法に言及が進む。この方法=攤派は、つとに戦争で使われた。いずれも悪い結果を残した。あとでケアが必要になったとしている。農村漁村文化協会訳p.102-103
(目標値が割りあてられると下部組織は、評価を得ようと無理に数字を実現しようとする。手抜きや過度に進む傾向が広がるのではないか。)ただここでもこの手法の問題は深堀(ふかぼり)されず、集団農場モデルが、考慮すべき問題を覆い隠してしまったとする。さらに階級闘争、二つの道の道の闘争の問題にまでエスカレートさせて、批判を加え、他人には選択と創造を発揮する余地を与えなかった。農村漁村文化協会訳p.103 注目されるのは数値が実現することで、それは毛沢東への敬服につながったという記述だ。

(先ほどの二人の性格の違いも重要ではあるが、以下の生産力決定論と生産関係決定論の整理も大変行き届いていて感銘を受ける。)一方は、鄧子恢を代表とし、多くは生産力の発展水準に配慮しているものであった。新民主主義社会を経由し、多様な経済を併存させ、かつ、生産力の発展に有益な私有経済を利用する考え方を堅持していた。他の一方は、毛沢東が1951年に提起した資本主義の工場制手工業段階を模倣するという主張であり、政権奪取後、まず早急に所有制を変更し、公有制の基礎のうえで生産力を発展させるというものであるが・・・歴史が証明したことは、(10年掛けて新民主主義社会を建設するという既定の戦略的計画を)飛び越えられなかったことであり、たとえ飛び越えたとしても、後戻りする羽目になることであった。一つの社会制度は、それが生産力の発展を受け入れられる間は、歴史の舞台から退くことはあり得ないのだ。農村漁村文化協会訳p.103

(このあとの次の文章は、生産関係論を一時 鄧子恢と杜潤生も受け入れたことを示す。そのときはそれが正しいと考えたが、しかし結局はそれは間違いであった。やはり生産力決定論が正しかったと言っているように読める。)当時の背景のもとで、鄧子恢と私は、一場の論争の後、毛沢東の主張を受け入れ、これを論理の前提として、一連の自己批判をしたが、まったく本心と違うことではなかった。農村漁村文化協会訳p.103

(確かに社会主義ー合作化の高まりはやってきた。この点で毛沢東が正しかったことを、杜潤生は認める。しかしそこに現実との齟齬があることで、矛盾が蓄積していったことにやはり言及している。)
毛沢東は、1955年7月、社会主義の高まりの到来を予測したが、1956年の年初には果たして事実となった。このことは、さらに、毛沢東が正しく、鄧子恢と私が間違っていたことを証明した。農村漁村文化協会訳p.103
高まり」の二年目に、大量の農民が自分から牛を引っ張って退社したり、退社を要求したりする事態が生じた。(教育運動により退社の風潮が制止されると)農民は、その後、また包産到戸などの方法によって制度を修正し、自分たちの利益要求に適合させた。
・・・政権の手段をもっていると・・・変革のモデルを構想して、大衆を立ちあがらせ、呼応させて、執行することができるが・・・もし、この構想が現実に適合していなければ、経済関係を捻じ曲げ、政治矛盾を累積させることになる。農村漁村文化協会訳p.104

(第七期六中全会後の鄧子恢と杜潤生に対する処分)1955年11月、党中央は、私の中央農村工作部秘書長および国務院第七弁公室副主任の職を解き、農村工作部門から私を異動させた。鄧子恢は、当時は何も処分は受けなかったが、翌年9月に開催された第八回党大会で、その他の副総理が昇進したような待遇は受けなかった。しかも中央農村工作部はこのときから冷遇され、数年を経ず、1962年9月の第八期10中全会開催後「10年間一つもよいことをしなかった」ことを理由に、廃止された。農村漁村文化協会訳p.105

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