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鄧小平(1904-1997)

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#民主化

中国=資本主義論 矢吹晋『鄧小平』1993/2003

矢吹晋『鄧小平』講談社学術文庫版2003年(底本は講談社現代新書1993年)より、その結論部を見る。まず「中国的特色をもつ資本主義」論。中国は端的に資本主義だと指摘している。この中国=資本主義論は鋭い。  他方で民主化については矢吹さんは、台湾や香港にならっていずれ民主化するとしたが、この30年に実際に中国がしたことは、台湾の選挙に干渉し、香港の民主主義を破壊したことだった。矢吹さんはこの民主化の議論ではいかに記述するかの判断を間違えたのではないか?矢吹さん自身指摘しているよ

魏京生の逮捕 1979/03/29

 北京西単のバスの停車場のそば。200メートルほどの壁に、壁新聞が張られるようになったのは1978年春頃からだとされる。その中で魏京生が1978年12月5日に張り出した「五番目の現代化」と題した壁新聞は広く注目された。そこで「われわれを天下の主人とすること、我々を独裁統治者が野心を拡張する現代化の道具とせず、我々が人民生活を現代化できること、人民の民主、自由と幸福が、現代化を実現する唯一の目的であること、この第五の現代化がなければ、すべての現代化は新たなたわごとに過ぎない。」

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

朱嘉明先生訪談録:1988-1989

朱嘉明『中国改革的岐路』聯經2013年1月pp.44-46, 48-50 ここでは1988年の価格闖關(訳注 価格自由化の加速全面化)政策の採用から1989年の六四事件の評価までを採録する。ここで繰り返しでてくるのは、吴敬璉への非難である。一般的には呉敬璉は自由化政策の旗を掲げ続けている人物とされるが、他方で趙紫陽の「価格闖關」政策への攻撃を執拗に続けていることでも知られている。しかし少し調べるとわかるのは、この政策は鄧小平が推し進めたものだ。であれば鄧小平の責任も追及するべ

許良英談鄧小平趙紫陽 1999

この記事のSourceは以下のとおり。許良英談鄧小平趙紫陽 1999年自由亜州電台 張敏専訪(open開放網 2013年12月8日更新)。以下は全訳。(写真は方励之文集第二巻より)  1986年11月、方励之は私を訪ねてきて、1987年は反右運動30周年だから、反右運動の歴史討論会をやるべきだと述べた。(そこで)私と、劉賓雁、方励之の三人が連名で発起人になったが、私の家の中で討論して決めたことだ。(しかし)鄧小平は胡耀邦に辞職を迫り、方励之らの党籍を解いた。我々の反右歴史討

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85 2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に