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鄧小平(1904-1997)

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#趙紫陽

Zhao Ziyang 趙紫陽 1919-2005

趙紫陽 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、趙紫陽は中国共産党を追放され、資本主義の危険分子subversiveとして非難されていた。1980年までに古い党の指導者たちが亡くなり、趙は支持favourを回復し、中国の首相になった。彼は1980-87年の首相であり、1987-89年の中国共産党総書記である。  趙紫陽は河南省に1919年10月17日に生まれた。彼は1932年に共産党青年団に加わった。6年後(1938)、彼は党の正式のメムバーになり、そ

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

朱嘉明先生訪談録:1988-1989

朱嘉明『中国改革的岐路』聯經2013年1月pp.44-46, 48-50 ここでは1988年の価格闖關(訳注 価格自由化の加速全面化)政策の採用から1989年の六四事件の評価までを採録する。ここで繰り返しでてくるのは、吴敬璉への非難である。一般的には呉敬璉は自由化政策の旗を掲げ続けている人物とされるが、他方で趙紫陽の「価格闖關」政策への攻撃を執拗に続けていることでも知られている。しかし少し調べるとわかるのは、この政策は鄧小平が推し進めたものだ。であれば鄧小平の責任も追及するべ

陳雲「当面の経済工作」1988/10/08

這是陳雲同志同中央負責同志談話的要點。《陳雲文選 第三卷 第二版》人民出版社1995年,pp.365-367 (中央負責同志とは趙紫陽のことだと矢吹さんは指摘している。ー1988年11月には、陳雲(中央顧問委員会主任)が趙紫陽を呼びつけて、「八ケ条の意見」を説いた。矢吹晋『鄧小平』講談社学術文庫2003年p.150. 保守派は経済改革によってもたらされたインフレ、所得格差の拡大が中国社会主義の成果を食いつぶすと危機感をつよめた。同前p.149.) 我々社会主義国家

陳雲 動乱に反対する 1989/05 1990/05

第一部分是陳雲同志在中共中央顧問委員會常務委員會議上的講話要點。第二部分是陳雲同志寫給中顧委各同志一封信的節錄。《陳雲文選第三卷》人民出版社1995年pp.368-369  陳雲に関するファイル  陳雲について(福光論文) 鳥籠理論(福光) (1989年5月26日)  動乱に反対する問題に関して、私は2点意見を述べたい。  第一に現在は、大事な(關鍵)時期(時刻)であり、後退はできない。もし後退すれば、2000万の革命烈士の命と引き換えに得た社会主義の中華人民共和国は、資本

許良英談鄧小平趙紫陽 1999

この記事のSourceは以下のとおり。許良英談鄧小平趙紫陽 1999年自由亜州電台 張敏専訪(open開放網 2013年12月8日更新)。以下は全訳。(写真は方励之文集第二巻より)  1986年11月、方励之は私を訪ねてきて、1987年は反右運動30周年だから、反右運動の歴史討論会をやるべきだと述べた。(そこで)私と、劉賓雁、方励之の三人が連名で発起人になったが、私の家の中で討論して決めたことだ。(しかし)鄧小平は胡耀邦に辞職を迫り、方励之らの党籍を解いた。我々の反右歴史討

周其仁《鄧小平は何を行ったか》2008

 周其仁(チョウ・チレン 1950-)は中国で大学入試(高考)が再開された直後に入試を受けた世代(那三届)である。中国では大学入試は文革のために11年なかった。1977年10月に人民日報で再開が公布され、実際の再開最初の試験は12月におこなわれた。1977年の入試で受験生は570万人に及んだが、合格者は29万人だった(実際に進学できたものは21万人。進学できたものは受験者27人のなかで一人という狭き門であった)。この世代の優秀さは群を抜くものだったと思われる。(このときの入試

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85 2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に