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小学校、中高のそれぞれの6年間

小学校の6年間と中学と高校の6年間、この12年間を今思い起こすと自分はいつも運が良かったなぁ、運に恵まれていたなあと感じる。

小学校入学と同時に関西から関東は茨城県の霞ヶ浦のほとりの田舎町に父の会社の転勤に伴い引っ越した。それから3年半をズーズー弁が残る水郷の町で暮らす。小学校4年の半ばにこれまた父の会社の転勤に伴ないまたまた関西は甲子園に戻る。

中学入学と同時に甲子園から神戸に移る。これは我が家族にとってマイホームに住む初めての経験となった。それまでの父の勤める会社社宅生活にピリオドを打ち、以来実家はこの神戸で今まで固定され転勤生活、引っ越し生活から両親は解放された。
自分自身も大学入学まで神戸から出ることはなかった。

小学校の6年間は1回の転校はあったものの通った2つの小学校はいずれも公立の町立、市立の学校だった。いろんなクラスメートがいた。そのクラスメートの家庭もいろいろだった。茨城で通った小学校のクラスメートの家庭はそれこそ様々だった。昭和40年代のことである。今よりずっとサラリーマンの割合が少なかった様に思う。都会とは違い地方に行けば行くほど自営業の家庭が多くなるのだろうか。野菜屋さん、お菓子屋さん、クリーニング屋さん、整骨院、診療所、郵便局、バスの運転手。クラスメートの家のお父さんの仕事は自分の父の様にサラリーマンで昼間は会社に行っていて実際に何をしているのか全く分からない環境とは違い、家庭と両親の仕事場がすぐ側に、すぐ目の前にある。クラスメートの家に遊びに行くとその家の傍でそのクラスメートの両親が働いている。そんなシーンが普通にあった。それが新鮮であり子供心にも覗いていいのか悪いのか、躊躇いがちながらもついつい熱心に見つめてしまう。例えば、お菓子屋さんの家に遊びに行った時のこと。家の1階はお菓子の製造工場で職人さんがそれぞれお菓子を作っていた。その工場を通り抜けた階段を上がって2階にそのクラスメートの部屋があった。そのクラスメートにしてみれば自分の家、自分のテリトリーなのだからスタスタとお菓子の工場を通り抜ける。しかし、こっちにしてみれば普段食べたくて仕方がないお菓子がいっぱいある。しかもどんどん増えていく。実際に食べられなくてもそれをチラッと見るだけでドキドキした。その後2階に上がって何をして遊んだかはとんと覚えていない。あるときは父親のいない母子家庭のクラスメートと2人だけで外で遊んだことがある。そのお母さんは目が見えないとそのクラスメートは語った。今思えば生活保護を受けていた家庭なのだろう。学期末に家に帰っても通信簿をお母さんに見せないと言っていた。自分の家庭ではとても及びもつかない環境がそこにはある。身近なクラスメートとはいえ他人の家庭の一端を垣間見る機会は両親の考え方や教育方針などが小学生だった自分には絶対的であったにせよ、ふ〜ん、そんな考えもあるんだね、といった相対的に少し離れて眺める様な姿勢を自然と身につけるキッカケを後にプレゼントされた気がする。

神戸に移っての中学と高校の6年間は私立のカトリックの学校に通った。小学校の時とは違い地元ではトップとは言えないまでもとりあえずの進学校だった。私立なので授業料も必要。生徒を通わせる家庭はある程度裕福か裕福とは言えないまでも子息の教育に熱心な家庭である。やはりサラリーマンの家庭が圧倒的に多かった。他に若干会社を経営している父親とか政治家とかいたと思う。総じて通っていた学校では経済的には比較的恵まれた子弟が通っていて秩序が保たれていた。いわば学ぶに適した平穏な環境が整っていた。

この小学校から中高の12年間の経験は自分のごく閉じられた狭い限られたもの。他人から見てどの様に映るのか。それを自分は知らないし想像出来ない。いろんな捉え方があるのだろう。自分が運に恵まれたと思うのは裕福な家庭に育ったと言いたいのではない。貧乏をしたとは決して思わないがさりとて贅沢な暮らしだったとも思わない。子供の頃からあまりモノに執着する方ではなかったので欲しいものが手に入らなかったという悔しさや悲しさなどは経験したことがない。ただ、いろんなことをしたいとは思っていた。いろんなことに好奇心を持った。行きたかった転地学習、修学旅行、夏の合宿、冬のスキー合宿などなど全て参加出来た。今思い返してても有難いと思う。しかし、あのいろんな仕事をしている家庭を垣間見た小学校時代がなければこれだけ有難いと思うこともなかったかも知れない。私立の中高の仲間しか知らなければ当たり前と思い両親への感謝の気持ちが起きなかったかも知れない。10代のときに置かれた環境とはそれだけものの見方、考え方に及ぼす影響が大きいのだと今振り返って思う。改めて自分は運に恵まれているなと感じる。ただ感謝あるのみ。

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