夏目漱石「それから」 向こうの魂が遠慮なく

近頃代助は前よりも誠太郎が好きになった。他の人間と話していると、人間の皮と話すようで歯痒くってならなかった。けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、もっとも相手を歯痒がらせるように拵えられていた。これも長年生存競争の因果にさらされた罰(ばつ)かと思うと、余り難有(ありがた)い心持はしなかった。

この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。あの一図な所はよく、嫂の気性を受け継いでいる。然し兄の子だけあって、一図なうちに、何所か逼らない鷹揚な気象がある。誠太郎の相手をしていると、向うの魂が遠慮なく此方(こっち)へ流れ込んで来るから愉快である。実際代助は、昼夜の区別なく、武装を解いたことのない精神に、包囲されるのが苦痛であった。

誠太郎はこの春から中学校へ行き出した。すると急に背丈が延びてくるように思われた。もう一二年すると声が変る。それから先どんな経路を取って、成長するか分らないが、到底人間として、生存するためには、人間から嫌われるという運命に到着するに違いない。その時、彼は穏やかに人の目に着かない服装(なり)をして、乞食の如く、何物をか求めつつ、人の市をうろついて歩くだろう。


夏目漱石 「それから」

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