吉本隆明 善・悪どちらを優先して考えるか

善・悪どちらを優先して考えるか。これを考えるには信仰のあるなしが大きな問題になってきます。親鸞は当然信仰を持っている人ですから、そこが僕にとってわかりづらいところではあります。

善人が天国に行けるなら悪人はなおさら行ける。そういう考え方はまったくその通りに考えていたのではないでしょうか。理屈はどうかといえば、要するに、善人は救済を必要としていない。だけど、人間、救いを必要としているとすれば、それはどこかに悪を持っているからだという考えがもとになっていると思います。

こうした考えを受けて、「悪人が天国に行けるというのなら、意識して悪いことをしたらいいじゃないか」といって悪いことををするお弟子さんもいました。それを造悪論と言いました。それに対して親鸞は、「じゃあ、いい薬があるからといってわざと病気になったり怪我をしたりするか。それはしないだろう。だから、つくった悪はだめだ。心ならずも悪いことをしてしまったとか、ひとりでにこうなってしまった、という悪の人は必ず救われるんだ」という考え方で応じます。

意識してわざとつくった悪は、いい薬があるからといってわざと病気になるのと同じことだというわけです。人間はそんなことはしないし、それじゃ成り立ちません。病気の人がいい薬を飲めば効くでしょうが、病気でもない人は薬は要らないのです。

では、病気も含めて悪に対することがどうして存在するのか。「人間にはさまざまな欲望がある。この現実社会は欲望の故郷みたいなもので、執着があってなかなか去りがたいものであるし、欲望自体がなつかしいということがある。だからはやく浄土へ行こうという考えが起こらないんだ」というのが親鸞の考え方だと思います。

また、なぜ人は悪をなすか、ということについても「歎異抄」の中で、親鸞は言及しています。

「あるとき、親鸞が唯円に『おまえは俺の言うことなら何でも聞くか』といった。唯円は『お師匠さんの言うことはなんでも聞きます』と答えると、親鸞は『じゃあ、人を千人殺してみろ』と言った。唯円は正直に『いや、人を千人殺せと言われても、一人の人間さえ殺すだけの気持ちになれないし、それだけの度量もないから、それはできません』と答えた。親鸞は『いま俺のいうことは何でも聞くと言ったのに、もう背いたじゃないか。そういうふうに業縁(ごうえん)がなければ一人の人間さえ殺せないものだ。だけど、業縁があるときには、一人も殺せないと思っても千人殺すこともあり得るんだよ』と言った」

僕は機縁と訳していますが、仏教の言葉では業縁と言っています。つまり一人のときにはたった一人も殺せないのに、たとえば戦争になると百人、千人殺すことはあり得る。それはその人自身が悪くなくても、機縁によって千人も殺すということはある。だから、悪だから救われない、善だから救われる、という考え方は間違いだ、ということです。これはすごくいい言い方だと思いました。

吉本隆明 「真贋」

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