伊藤整「若い詩人の肖像」 書くことそのことの実質

「伊藤君、君は志賀直哉の小説を読んだことがありますか」と彼が言った。

私は志賀直哉の作品を殆ど読んでいなかった。私は、それまで小説には興味を持たなかったので、小説を読む場合にも、佐藤春夫や室生犀星などの詩人出の小説家の作品を多く読んでいた。又谷崎潤一郎のような感覚的イメージを使う作家のものは分りやすいので読んでいた。志賀直哉や武者小路実篤の作品は、意味だけをドライな形で伝えようとするもので、詩的な発想には無関係だと思っていた。私は答えた。

「いや、読んでいません」

「君、志賀直哉を読みたまえ。志賀直哉はいいですよ」と梶井が言った。それは志賀という作家を尊敬しているというよりも、志賀という作家の良さを自分が認めて、保証してやる、というような言い方であった。

「伊藤君、文章というものはね、我々はいつも活字で読んでるだろう?活字というものは魔物でね。あれで読んでいると、書いている時の息づかい、力の入りかたが分らないんだね。僕は志賀直哉のものを原稿用紙に書き写してみたんだ。するとね、書いてる人の息づかいが、よく分るんだ。ここで力が尽きて文章を切ったとか、ここで余力があって次へ伸びて行っている、というようなことが分るんだ」

彼が、志賀直哉のものを書き写している、と言った時、私はすぐ、オレなら他人のものを書き写すようなことはしないぞ、と思った。それが屈辱的なことに思われたのだった。しかし、私は、自分も同じようなことをしていることに気が就いた。私は三四年前から、読んだ詩で感心したものは有名な詩人のでも、無名な投書家のでもノートに書き写す習慣を持っていた。そして私は、詩壇の有名さということと私の感心する詩とが、ほとんど関係がないこと、同人雑誌の投書の詩に案外いい作品があり、著名な詩人の作品には取るべきものが少いことに気がついていた。オレが選んでやるのだ、という気持で私は書き写していた。それは書き方を習うというよりは、オレの鑑賞眼に及第したものを取ってやるのだ、という誇りを感ずる仕事であった。あれと同じことかも知れない、と私は考え直した。しかし梶井の言った言葉の後半分を聞いたとき、梶井の言っていることは、それとも違うことが分った。

彼が言っているのは、屈辱とか誇りとかいうことではないのであった。感心した作品を、原稿用紙に写してみると、その作品が書かれる時の、書く人の心の動きそのものが具体的に分る、という技術的なことであった。書くことの技術、その字配りの中にある気息というものを理解しなければ何を言っても駄目だ、だからやってみるのだ、という技術的真剣さが彼の言葉に漂っていた。この男は、書くことそのことの実質をとらえようとしている、と思った時、私は自分の心の中に湧き出しかけていた「そんなことは僕はしませんよ」という言葉を押し戻さねばならなくなった。そして私は、梶井が言うのだから、志賀直哉はいい作家かも知れない、と思った。


伊藤整 「若い詩人の肖像」

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