内田樹「街場の戦争論」 身体と言語

問題にすべきなのはアスリートが長い時間と努力の末に達成した「奇跡的なワンプレー」がどれほどすばらしいものであったかなのに、メディアは数値ばかり取り上げる。イチロー選手はスポーツメディアにかなり冷淡なのは、メディアが数値ばかり気にしたがるせいだと思います。打者にすれば、当たり損ねのテキサスヒットより快心のセンターライナーの方に達成感を覚えて当然なのです。最高のスイングができたという事実のほうが打率よりも重い。その「奇跡的なワンプレー」がどういう訓練の積み重ねを経て、どのような技術的な工夫の成果としてもたらされたのか、その方に僕は興味があるし、たぶん他のアスリートたちも知りたいのはそこでしょう。でも、スポーツジャーナリズムはそういう身体技術については興味を示さない。達成された数値をバックステージ情報、親子愛とか師弟愛のような「お話」ばかりを選択的に書こうとする。たぶんそういう話のほうが読者は喜ぶと思っているのでしょう。でも、そうやってマーケットに迎合しているうちに、いつの間にかどのような例外的に高度な技術をアスリートが達成したのかを観察し、記述できる書き手がいなくなってきた。

オリンピック報道がその典型です。僕だって、世界的レベルのアスリートはどれ程高度な身体能力を発揮しているのかを専門的見地からていねいに説明されるならテレビも見ますけど、ただ「日本人選手の活躍」を「ライバル物語」とか「遺恨試合」とかいう情緒的なスパイスを絡めて報道されると、ほんとうにうんざりしてしまう。どの国のアスリートであろうと関係ないじゃないですか。「こんなこと」ができる人間がいるんだということに素直に驚嘆したい。日本の金メダルが何個だとかいうことは、はっきり言って僕にはどうでもいいことです。アスリートの国籍がどこであろうと、人種がどうであろうと、宗教がどうであろうと、人間にはここまでのことができるということをみせてもらえれば誰だって感動する。僕が聞きたいのは絶叫や煽りじゃなくて、あるアスリートのパフォーマンスがどのようにすばらしいのかを理解させてくれる技術的な解説なんです。形容詞はいらない。

スポーツジャーナリズムの退廃は、ジャーナリスト自身が身体と言語の関係についてあまり深く省察していないことに起因しているように僕には思われます。人間の身体は言語的に分節されている。ですから、たった一言で身体のありようががらりと変わることがある。そのような身体に対する言語の影響力を「身体についての言語を操る人たち」であるジャーナリスト自身がむしろ過小評価している。本当に言語が身体的なパフォーマンスに強い影響を与えることを自覚していたら、あんな雑な言葉づかいをするはずがない。

どのような語彙を用いて、どのような「ヴォイス」で語るのか、それが身体の動きに決定的な影響を及ぼす。もう一度繰り返します。人間の身体は言語的に分節されている。そして、指摘する人があまりいませんけれど、日本ほど身体技法について語る文献が多い社会はほかにはないと僕は思います。

世阿弥には『風姿花伝』や『花鏡』のような伝書があり、今に伝えられています。能楽演能のときの心身の働きについて心得ておくべきことを詳細に記したものですが、そういうものは他の国にはまず見ることができません。たとえばシェークスピアは『シェークスピア演劇のための俳優修業』というような本を書いていません。ジャン・ラシーヌが自作の作劇術について詳細な自注を加えましたが、身体技法については何も書いていません。

武道でもそうです。僕たちは質量ともに圧倒的な武道の伝書を先人から伝えられています。(中略)それだけの文化的蓄積がある。僕が知るかぎり、欧米にはこのような身体論文化の伝統はありません。テニスでもゴルフでも野球でも、個別的な技術書はあるでしょうけれど、「フッサールが書いたテニス技術書」とか「メルヴィルが書いた野球技術書」とかいうものは想像することができない。それは人文系の学知と身体技法の間に本質的なリンケージがあるというふうに欧米の人は考えてないからです。

それは心身二元論の必然的な帰結だと思います。精神は精神の専門家が扱い、身体は身体の専門家が扱う。たぶん、欧米ではそういう分業になっているんでしょう。でも、日本は違います。澤庵の『不動智神妙録』や『太阿記』は武道家たらんとする者にとっては座右の銘の書ですけれど、澤庵は禅僧であって、武芸者ではありません。でも、禅僧が武芸書を書いた。それが可能なのは、身体を変化させるほど強い宗教者の言葉が存在することについての社会的合意があったということです。

ふつうに考えると、言葉が働きかけることのできるのは知性に対してだけです。でも、僕たちは経験的にダイレクトに身体に触れてくる言葉が存在するということを知っています。ある種の言葉は身体に触れてくるし、ある種の言葉はまったく触れてこない。人の身体を動かす言葉あり、動かさない言葉がある。それはしばしばそこで語られているコンテンツとは関係がない。


内田樹 「街場の戦争論」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?