敵はいないは、絶賛されるは

辺見庸 いまの時代っておもしろいですか。

原一男 おもしろくないです。

辺見 私もほんとにおもしろくない。書いたりしゃべったりするのに値しないんじゃないかと思うんですよ。何を言っても、どんどん揮発していく、色がすぐに褪せる。
実際、たとえばオウムだって、これは不謹慎なんですが、地下鉄サリン事件がオウムの犯罪だということになってきて、正直なところ、僕はつまらないですね。これは社会正義ということと別に、ドラマの問題として言うんですけど、ドラマの奥行き、時代をぶち壊す力というか、恐怖の奥行きでいうと、もう少し見えてこない方がよかったと思うんです。オウムは底なしの狂気じゃないと思うんですね。何だかばかげた正気に似ている。狂気は改心しないものね。もう少し正体不明というか、ましな思想集団であってほしかったという無いものねだりがどこかでありますね。60年代とも70年代とも80年代とも違う。世紀末の事件として、もっと腰も抜けるような、鳥肌立つようなイメージを喚起するかといえば、オウムにはないですね。

そう考えると、『ゆきゆきて、神軍』は、あの時代、十分狂気であり得た、“凶器”でもあり得たと思うんですね。それが『全身小説家』になると、いまふうに、広義のエンターテインメントとして上手におもしろがられたという感じがする。時代だからでしょうね。じゃあ、そこで何を撃つのか。だれを敵にするのか。それがない。敵がいればいいですよ。いまは敵を探すのがすごく難しい。

原 まったくそうですね。僕は次の映画でどこを敵にということをやらなくちゃなと思うんだけど、漠然とはあっても、それを眼に見えるようにしていくのがえらく困難だという感じがしています。

辺見 見えにくいですよね。敵を見えなくしている何かが当面の敵なんだな。

原 いま韓国とか台湾とか中国の映画がもてはやされているのは、敵が見えやすいんですね。変なもんで、映画って敵がはっきり見えたほうが、パワーがあるんですよ。

辺見 深作さんも同じようなことをおっしゃってましたね。

原 だから自分のなかのパワーをもう一回駆り立てて強引にひきずりださないといけないと思うんです。

辺見 日本はしばらく飢えないだろうと思うんですよ。銭さえあれば飢えない。そこに問題がある。そういう富の偏在が19世紀末よりひどいという事実は、観念にせよ何にせよ捉えておかないと、テクニカルなものにどんどん逃げていき、ただおもしろいというところに人間が行きそうな気がする。どんなおちゃらけでもいい、どんな堕落だろうと、どんなフィクションでも構わないけれど、ただ小説、映画というものは、意識するにせよ、しないにせよ、きわめて政治的な装置だと思う。政治の言葉を一言も使わなくても、政治をテーマにしなくても、本質的に政治的装置だと思います。大状況について無知な作品、それはここの細部への目配りでわかりますものね。それは僕にはつまらない。そのなかで、自分の持っていた意味の網の目を破ってくれたのが原さんの映画だった。
アメリカ帝国主義だとか、スターリニズムだとか、日帝だとか言えてるときは、幸せだったなと思いますね。ある種の虚しさと、根拠抜きだけど、それなりの確信があったんですからね。

原 井上光晴さんの場合に、なんとなく構想していたのは、戦後の民主主義を少しでも眼に見えるようにできないか、井上さんならできそうかなと思ったんですよ。でも始めてみると、うまく行きませんでしたね。映画は形にしないといけないので、こういう形にしましたけど。

辺見 虚妄の戦後民主主義の果てにある今日ただいまでは、自分が敵を見出させないと同時に、自分が誰かの敵になっていることも見えない、ということもある。韓国なんかでいわゆる元従軍慰安婦の取材とかすると、それが突き刺さってくるわけですよ。でも、この社会はそういう敵意というものを、ないものと前提して語られてきたわけですよ。それは、われわれのジャーナリズムがそういう空気をいつも醸成している。
阪神大震災の時にカダフィが「天罰だ」と言って、政府は抗議したけれど、あの発言はある意味で一方の文化なんですよ。それに国際的には、相当多数の人間が大震災でもって日本人の、ざまあみろと思っていたりもする。もちろんそれは罹災された人々の苦難とはまったく別のレベルの事実ですけど。
日本を明確に敵と記憶している人たちがいるのは事実です。でもそのことを語るのがまた鬱陶しくなるのは、日本の今日的な文化ですね。それはすべてわかったこととして話しているけれど、本当にわかっているとは思わない。肉体化されているとは思わない。それが震災や地下鉄サリン事件なんかで、少しひびが入り始めたんはないかな、という気はするけれども。
80年代以降、かなり社会が平坦化して、特に異形の者、異議申し立てというものを狩り取ってきた、地表部分から合法的に掃討しつつ、暴力団を含めて、それがどんどん恨みのように地下に沈潜し、育っていると思う。そのツケがそろそろ回ってきているように感じる。それはテーマだと思います。探さな、と思いますね。

原 やっぱり「探さな」という感じですか。

辺見 でも鬱陶しいなとも思います。もう仕事もやめちゃって、しゃべらなくたって、書かなくたって、だれも困りはしないし、って思いますけど。だって、きょうび、異分子だって十分商品価値ありという装置ができている。需要ありじゃないですか。情報商品市場ではすべてがそうですけど、週刊誌、新聞もそうです。異常、異分子でも、もはや日持ちしない。本ちゃんの異化、どうやって異化するのか。個なんだよ。個でしかやりきれない。この社会をどうすればちゃんとした摩擦を起こせるのか。どこに戦闘を構築するのか。でも無理かもしれないな。つくったら敵はいないは、絶賛されるはでは、糞おもしろくないですよ。正面から受け取らないで、うまく吸い取って、一般風俗の中に位置づけていく商業的な装置ができている。原一男ですらそうだと。

原 はっきり言えば自分の肉体を一個の爆弾と化して、どこでもいい、それこそ、サリンでも何でもいいじゃないか、というところまで欲求不満がつのってきている実感がありながら、果たして、どこでもいいというものの、やっぱり時と場所を選ぶでしょう。そこがどこなのか、それが実感としてわからないといういらだちですよ。

辺見 死に場所がわからない。

原 さすらっているという感じがしますね。その場所さえわかれば、それこそおれがサリンだと言ってもいいんじゃないかという破壊衝動がどっかにあるんですよ。


「屈せざる者たち」 辺見庸・原一男

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