情緒というもの

男はうなずいた。そして、低い、沈鬱な調子で言った。

「私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほんとに驚きましたよ。情緒、というものを持たない。彼等は、自分では人間だと思っている。人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの。それが海軍生活をしているうち。すっかり退化してしまって、蟻かなにか、そんな意志もない情緒もない動物みたいになっているのですよ」

「ふん、ふん」

「志願兵でやって来る。油粕をしめ上げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。やっとこれで生活が出来る。女房を貰う。あとは特務少尉、中位、と、役が上がって行くのを楽しみに、恩給の計算したり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮そうなどと空想してみたり、人間の一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか。だから、御覧なさい。兵曹長たちを。手のつけられない俗物になってしまっているか、またはこちこちにひからびた人間になっているか、どちらかです」


梅崎春生 「桜島」

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