宗教の事件 93 吉本隆明・小川国夫「宗教論争」

小川国夫 「ご無沙汰しています。二人で対談するのは六回目だと思いますが、何年ぶりでしょうか。」

吉本隆明 「たしか八年前の対談以来だと思います。」

小川 「そうでしたね。最近吉本さんがオウムについて発言されているのを見聞して、いろいろ直接訪ねてみたいことがありましたので、今回は僕の方から対談を言い出したんですが、実はもう一つの動機があるんです。

僕は大阪芸術大学でときどき集中講義をしていまして、この間、オウム真理教について取り上げたんです。すると、それを聞いた女子学生から、オウムに入った友人のことで悩んでいるという手紙が来ました。彼女の高校時代から親しかった友人が信州大学に進学して、そのうちオウムに入ったらしい。あるとき、会いたいという連絡が来たので、松本市まで行ったら、あなたも入信しないかと猛烈に勧誘されたそうです。ビデオを見せられ、オウムの上部の人も出てきて夜中の三時まで説得されたけれど、彼女は泣き明かして、ようやく抜け出してきた。でも、入信した友人は一度帰ってきたものの、「オウムの中にもいい人はたくさんいる」と言って再び戻ってしまった。何故こうなったのか、私はどうしたらいいのでしょうか、という相談の手紙なんです。
この他にも二つの相談を受けているんですが、手紙を読むと、悩んでいる人たちはみんな真面目で純粋なんです。「入信した友達は素晴らしい人です」と言っていて、友情にも篤い。それに、入信した子自身も自分の置かれた状況を正確に認識しているようです。僕は、彼らを感受性の豊かな若者たちと定義したい。しかし一方テレビでは、オウム信者はすべて凶悪犯罪集団のように報道されています。そのギャップはいったい、どこから来るんでしょうか。きっとテレビの側に問題があるんでしょう。例えば、サティアンへ入っていったテレビのレポーターが、いわゆるオウム食を見て、これがオウム食なんですか、あなたたち天丼を食べたくないんですか、と聞いたり、水道やトイレを見て、ご覧のように水不足です、節水状態です、と言ったりしたんですが、レポーターは、オウム信者と同世代ですし、良い友達になることができる年齢なんです。普通なら,あなたたち菜食主義よね、新鮮な野菜や牛乳はうまく手に入るのか、とか、水も滞りなく供給されているのか、タンク車で遠くまで取りに行かなくてもいいのか、とか心配して尋ねるところでしょう。それがテレビのせいでおかしくなっている。こんなに簡単に人間が変わってしまうのは何故でしょうか。オウムが現れたのは教育に問題がある、という説がありますが、同じことは、テレビのレポーターに向けてこそ言われるべきですよ。」

吉本 「たしかに凶悪犯罪集団オウム真理教という報道の過熱ぶりは凄まじいですね。僕も、自分のオウム真理教への評価とのギャップを感じています。でも、報道の中でも、教団の内ゲバで殺人があったとか、対立している弁護士一家を外ゲバで殺して埋めたとかいう部分は、あまり僕の関心を引かないんです。こういった犯罪は、普通の市民社会での事件と、あまり次元が変わらないからでしょう。例えば、夫婦の愛憎が極まったり、子供が家庭内暴力を振るったりすれば、近親者でも殺し合うことがあります。連合赤軍事件のように、イデオロギーの対立で殺し合うことも同じです。

しかし地下鉄サリン事件は違います。まったく無辜で、無関係である人々を、無差別に殺すという前提での殺傷行為です。これは善悪の新しい次元を開いた、かつて人類に類例を見ない殺戮行為ですよ。まさに、善悪の彼岸です。一般大衆の原像を繰りこもうという僕の基本思想から言うと、サリン事件だけは完全に否定しなければならないです。左翼思想でも宗教思想でも「無関係」はない、巻き込んでもいいんだと言う民衆観を僕は完全に否定しますから。しかし、この麻原という宗教家による新たな悪を、思想の中に包括する必要も感じるんです。この二重性が、僕の思想上の問題です。」

小川 「オウムは無関係に大衆を殺したのではなく、社会を自分たちに敵対する集団として考えていたとは言えませんか。」

吉本 「いや、サリン事件の本質は、撒くほうは覆面をして誰だかわからない、被害に遭うのは全人類の誰でもいいというところにあります。反社会的なテロ行為とだけ考えるのでは、狭く捉えすぎてしまう。もっと宗教的な世界観なしにはできない行為だと思えるんです。」

小川 「人間性に対する漠然とした悪意の存在は感じます。それを、仏教では業、キリスト教では原罪と、宗教が仮に名付けてきたわけです。その悪意が、とらえどころのない、ぼんやりとしたものだからと言って、軽視していいということは絶対にない。水面下の氷山のように、案外大きいものだという気がします。しかし、業や原罪を感じた人たちが、何故他の宗教ではなく、オウム真理教へ向かったのかを探る必要がありますね。」

吉本 「僕のところにも、オウム信者から手紙が来たんですが、その中で興味深いなと思うのは、獄中の麻原から、こういう苦しい状況だけれども、どこにいても精神の修業は続けなさいというメッセージが送られてきたというんですね。現在報道されているような、オウムを脱会したいとか、麻原のクソジジイとか言っている信者とは違う姿です。一家、親子の世代みんな入信していて、淡々として、辞める気はまるでないようです。それを読んで、やはりオウムには、凶悪犯罪集団という外側からの評価とは違う、宗教的な核があるのではないかと感じます。」

小川 「吉本さんのオウムを擁護する最近の発言は僕も読んでいるのですが、活字になった部分では、いま一つ理解しきれないところがありました。今日はそこを伺いたいですね。」

吉本 「まず、麻原は、宗教者として、特に仏教の修行者としてかなり優秀なレベルにいるではないかと思います。僕は、宗教に帰依しませんから、宗教的な世界そのものは分からないんですが、彼の著書のヨーガの実践についての記述などはとても評価できます。日本の中世までの仏教僧が修行していた内容が、かなり明らかにわかります。また、実際にヨーガの修練と何らかの達成がなければ、若者を惹きつけて一つの宗教宗派を形成することなどできませんよ。ですから、現存する仏教系の宗教者では、他にあまり匹敵する人がいないのではと思います。こういう発言が、批判の的になっているわけです。」

小川 「しかし、吉本さんの親鸞論の骨子では、彼以前の仏教の修法・修業を親鸞が否定したところにありました。それにもかかわらず、修行者としての麻原を評価なさる理由が、よくわからないんですが」

吉本 「親鸞は『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という悪人正機説から始まって、善いことや修業をしようと思ったらだめだ、それは往生の妨げになる、とまで完全に言い切っています。僕の親鸞論、特に造悪論に対する批判は以前からありました。しかしそれは親鸞の善悪論を退化させている、と僕は言ってきたんです。浄土真宗のお坊さんかつ親鸞の研究者である人が、親鸞の善悪論を発展させずに、やはり善いことをしたほうがいいんだという倫理観に戻ってしまっている。市民社会に流通している、根拠不明の善悪間に従うということは、善悪観が『往生要集』の源信まで退化していると思います。

逆にオウムは善悪観の新しい問題提起をしました。僕は今まで、親鸞の造悪論というのは一種の逆説ではないかと理解してきたんです。親鸞の弟子の一派に、善行をしなくてもいいなら、積極的に極悪なことをしようという者たちが出てきた。彼らに『良薬があるからといって、わざと病気になる必要はないだろう』というような比喩で親鸞は答えているんですが、これは少し足りない、本音ではないだろうと思ってきました。親鸞の教義の中には『悪いことをしたヤツの方が往生しやすいんだ』という主張が成り立つ部分が、確かにあるんです。

でもオウム事件を見てから、やはり、自分の弟子筋に本気で悪を行うやつが出て、親鸞は驚いて考え込んだ末、真剣に答えたのだろうと思うようになりました。この発言には、仏教(一般には宗教)の中にある危険性を説く方向性が隠されているだろうと考え得たんです。結局、親鸞の造悪論の根拠は、浄土の善悪観ではないでしょうか。現世の社会の善悪といっても、浄土の善悪観からいえば規模がずっと小さい。だから、極悪といっても、浄土から見れば悪ともいえないんだ、ということだと僕は考えます。」

小川 「聖書にも、パウロの『ローマ人への手紙』の中に、よく似た部分があるんです。悪人こそは神の輝きのために存在するとパウロが説いてきたら、それなら我々は悪に専念して神の輝きを増そうという人が現れてきた、と書いてある。しかしパウロは、それではダメだと答えているんです。聖書から敷衍してその趣旨を言いますと、パウロは、私はあなたが悪人よりも悪を知っている、だからこそ、悪がとても魅力的で、神を輝かせるものだと言っているのだ、と。そして、悪を知っているからこそ、結局悪は駄目なんだとも言えるのだ、と言うんですね。パウロは最初は体制側の官憲でしたから、当時ナザレ派とも呼ばれたキリスト教徒を迫害して、殺した経験もあったかもしれないです。だから悪を本当に知っていた。」

(つづく)

吉本隆明・小川国夫「宗教論争」




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