宗教の事件 48 吉本隆明「超20世紀論」

●「殺人を犯すか否かは契機次第」と親鸞は説いた 

小説家の村上春樹は、その著「約束された場所で」に収録された心理学者の河合隼雄との対談の中で、「悪とは何か?まだ自分には分からない。地下鉄サリン事件、オウム真理教事件がなかなかうまくとらえきれないのは、結局のところ『なにが悪なのか』という定義がしづらいからだ」と述べています。 

・・・・・・浄土の善悪の基準の規模が、現世の人間のそれとはまるで違うとしたら、前世で人を殺して悪人と断罪されても、浄土では悪人扱いされないということになりますか?

 吉本 ええ、そうです。親鸞は、「人間が現世において悪をなすか、善をなすかということは、ただ契機があるか、ないかの違いだ」といっています。 親鸞は、弟子の唯円に対し、「自分のいうことなら、なんでもいう通りにするか?」と尋ねます。唯円は「なんでもいう通りにします」と答えます。そこで、親鸞は「それなら1000人殺してみなさい」というんです。唯円は「自分の器量からしたら、一人の人間も殺せません」と答えます。 そうすると、親鸞は「そうだろう。人間というものは、殺す契機がなければ、一人の人間さえ殺せない。でも、殺そうと思わなくても、契機があれば、100人だって、1000人だって、人を殺すことがありうるんだ」というんです。 現在も、国家間の戦争がはじまると、どんな人であれ、100人だって、1000人だって、人を殺すということがありうるのではないですか。 善悪というのは、契機のあとで出てくる問題なんです。人を殺すかどうかというのは、極限の例ですが、善悪の問題について、いちばん深く考えた宗教家は親鸞だと思います。それに比べたら、オウム真理教が信者を殺したとかいうのは、そんな深い根拠があってのことではないと思います。 

・・・・・・人を殺すか否かは契機次第となると、そこで人間の意志とか、自己責任とかはどうなるのですか?

 吉本 人間の意志と無意志、あるいは意識と無意識、その両方が必然的に入ってくるものが契機だと思います。ですから、意識的に殺そうとしても、無意識では「イヤだな」と思っているために人を殺せないということがあるでしょうし、逆に、意識的に殺そうとは思ってはいなかったにもかかわらず、ケンカになって(個人同士のケンカに限らず。集団同士のケンカになったり、国家同士のケンカになれば戦争になって)たまたまそこにナイフがあったために、そのナイフで相手を刺して殺しちゃったということもあるわけです。 “酒鬼薔薇事件”で逮捕された少年にしても、その少年は悪人だから往生できないかといえば、親鸞なら、「往生できる」というと思います。あの少年が殺人を犯したのも、「契機」があったからだ、ということになると思います。 そういう「契機」をつくったのは、僕にいわせれば、母親の1歳未満までの育て方が悪かったからです。1歳未満までの育て方で、その子供の無意識の形成が行われてしまいますから。

 ●物質的豊かさが“精神の大欠乏”を生むパラドックス

 ・・・・・・物質的に豊かになったにもかかわらず、地下鉄サリン事件とか、“酒鬼薔薇事件”とか、不気味で、不可解な事件が起きていて、現在の日本社会の底流には不安が渦巻いています。現代人の精神は、どこか荒廃していますね。

 吉本 物質的に豊かになれば、それに伴って精神も豊かになる、というふうに漠然と考えられてきたわけですが、それは、「そうなるとは限らないぜ」ってことが、だんだんハッキリしてきたということはないでしょうか。 マルクスは、書簡の中で、「自分は歴史の法則を発見した」と述べました。それは、下部構造が変化すると、上部構造もそれに伴って変化するという法則です。でも、必ずしもそうじゃないよってことですね。 下部構造の中核は経済構造ですが、経済が豊かになっても、精神という上部構造はそれに比例して豊かにはならないということが、だんだんハッキリしてきたんじゃないでしょうか。物質的には豊かになっているにもかかわらず、精神が豊かになるどころか、逆に“精神の大欠乏”のようなことが起こりうるということです。 現在の日本社会は、家族関係にしても、男女関係にしても、まさに解体の過度期です。むかしと比べて、家族関係や男女関係が円満で、より仲良く、より楽しく暮らせるようになったかといえば、そうではありません。 それは、物質的豊かさ、掲載的豊かさが、個人の自由度を増して、家族関係や男女関係の絆を解き放ち、互いの関係をだんだん疎遠にさせていったからです。こういう事態は、マルクスにしても、「ちょっと予想外だぜ」っていうことがあると思います。 ・

・・・・・若者たちがオウム真理教に引き寄せられたのは、“精神の大欠乏”の時代に、オウム真理教が精神の欠如を埋めるストーリーを提供したからでしょうか。

 どうでしょうね。ある意味では、そうともいえるかもしれませんが、それは、分からないところです。 それにしても、オウム真理教の人たちは、麻原にしても、その弟子たちにしても、宗教以外のこと……たとえば社会、経済、政治、歴史などに関することについては、まことに幼稚なことしかいいませんね。 たとえば、彼らが歴史的なことに言及するときは、いつも“陰謀史観”なんです。文明が発達としたというけれど、こんなに人間が物欲にまみれてしまったのは、悪魔みたいな連中がいて、彼らがそうしたんだ、とかいうわけです。そこで、ユダヤ人とかが標的にされる。「そんなばかなことをいってもらっちゃ、困るぜ」って思います。

 ●麻原には親鸞のような“精神の深さ”はない ・

・・・・・親鸞の教えには、信仰を持たない者をも引きつける“精神の深さ”がありますね。こと“精神の深さ”という点では、親鸞と麻原とでは、まるでスケールが違うと思いますが? 吉本 それは、まるで違いますね。親鸞がなくなって何百年もたちますが、いまなお、親鸞のいっていることは真新しく感じます。ということは、当時としてはものすごく革命的な考え方だったということです。 それに比べると、麻原は、ヨーガの修行をしてある境地に達したとか、ヨーガや原始仏教、チベット仏教に通じているとかはいえても、独創性や普遍性という点では、裁判の現段階で判断する限り、希薄な気がします。親鸞ほどの器量はとてもないと思います。麻原が、いつか、何かをいうかもしれないという期待はあるんですけどね。 

 <了> 吉本隆明 「超20世紀論」

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