宗教の事件 67 吉本隆明・辺見庸「夜と女と毛沢東」

●闇に飛び交う迫撃弾の美しさ 

辺見 僕がハノイにいたころは、一週間ぐらい連続の停電は当たり前だったんです。最初はすごく起こるし、インフラのひどさを軽蔑するんですよ。でも結局は負けるんですね。諦めるんです。それで、もう不貞腐れて汗かいて寝るしかない。それでローソクをしばらく使いましたね。 日記を書くときも、ローソクを使うんですが、すぐなくなっちゃうんです。しようがないから石油ランプを買いましてね。そうすると、夜、つまり闇というのは非常に静かなんです。ランプの芯が燃える音だってものすごく聞えてくるし、あらゆる音が非常に鮮やかになる。浮き立つというんですかね、貴重な経験をしましたね。 吉本 闇が静かということはありますね。 辺見 阪神大震災でも停電がありましたでしょう。現場へ行った若い記者の話を聞くと、ほとんど80%ぐらいが便秘になっちゃうんですね。これは、まず彼らはミネラルウォーターしか飲まない。それから、汚いトイレに行ったことがないんですよ。ましてトイレ以外のところでするという経験をもってないんですね。だから便秘になっちゃったんです。 もう一つ驚いたのは、数日たって水が出て、電気が回復したりするわけですけれども、現地の若い人たちの多くが何に一番喜んだかというと電話だというんです。つまり水とか光とかいう生活の実感よりも、常に関係性をいうんですか、人と人との関係をこよなく願っている。僕はその話を聞いてちょっとギクリとしましたね。 

 吉本 ああ、わかりますね。 

辺見 ハノイでは、しょっちゅう停電が合って、食事中にパッと消えるんですね。そうすると、こっちはすぐ百円ライターを探したり大騒ぎするわけですよ。でも、地元の連中は顔色一つ変えない。もう動作が決まっているわけです。側にマッチがあって、ローソクがあって、闇に慣れているというのか、闇のときの視力がちがうんですね。心の視力といいますか・・・・・・。 僕が止まっていたぼろホテルがあるんですが、底の裸電球がたとえば停電一週間後に前置きなしに一斉にパッとつく。もう涙が出てくるんですよ。光りに頬ずりしたくなるような……。もう拍手です。ホテル中に電気がつくと、各部屋から拍手が聞こえてくるんです。商社員もいれば外交官もいる。皆がただひたすらに喜ぶわけです。そんなものですね。人間なんて。 そういう意味では、日本からポンと、そういう闇の深いところに行くと非常にいいですね。僕は東京でミシェル・フーコーなんて読めないし、吉本さんの昔の本だってやっぱりじっくりとは読めないと思うんです。ところがヴェトナムじゃ、また読む機会を持てたんです。夜に書かれたものは夜に読むんだ、ということですね。 

吉本 神戸地区で被災した知人、その人は、自分は「震災前」と「震災後」と、自分の中で歴然と断層がある、と言っていました。存外暗闇の体験が大きいんでしょうね。 

辺見 僕も自分で振り返ってみて、あれだけの闇を経験してずいぶん変わりました。一番考えるのは闇の中なんです。格好よく言えば、思弁に似てくる。それから、暗いですから狂気じみてくるというんですかね。それはものを考える上で決して悪いことはないんだ、と思っているんですけどね。 宗教とりわけ仏教というのは闇の思想だな、と思うことがあるんです。光が皓々と差している状態ではどうやらなくて、魂が迷い、彷徨うわけですから、おそらく薄暗い状態なんだろうな、と思うんですよ。一方で阿弥陀仏を無量光仏といって、ものすごい光り輝くものが彼方にあるわけですから、光を中心にした夜の思想というか、闇の思想だな、というふうに思うんです。 

吉本 そうだと思います。仏教というのはそういう意味合いで恐いところがありますよね。 

辺見 僕は夜間の戦闘を随分見ているんですよ。吉本さんも空襲を経験しておられると思うんですけども。 

吉本 ええ。僕は3月10日の東京大空襲のときの思い出ですね。 

辺見 私は、冷戦後の戦闘、地域紛争で夜間の戦闘というものを何回か見まして、追撃弾というものが飛び交うんです。こういうふうに、真ッ暗闇の中で真っ赤な筋を引くんです。血みたいに。それから、今度は着弾しますでしょう。そうすると、ちょうど半円を描くようにして光がボーンと爆発するんです。私はそれを見てて、人が死んでることですから記事には書けないですけれど、ある種、妖しいぐらいにきれいだな、薄気味悪いぐらい甘美なものだなと、感じました。 僕は米軍のヘリコプターにも乗ったんです。暗視スコープというのがあって、夜間でも物がくっきり見える器機が備えつけられているんですね。それを通して上空から見ると夜が完全に緑と白になるんです。この光景は恐ろしかった。本当に『黙示録』に出てくるような光景だった。電気を消したビルの中まで見えるんですよ。そこに弾を打ち込むわけです。人間はおそろしいモノを発明するものだなあと思ったですね。 

吉本 僕はそれを3月10日の大空襲の日に見ました。『黙示録』の風景を。 沖縄の人でかなりの年の人たちから聞いた話だと、夜の闇の中で、原因がわからないような火が見えたり、それが飛んできたりというのを昔はしばしば体験したんだというんです。ああいうのは、つまりどう言ったらいいか、「その人の錯覚だよ」と言い切っていいのかどうか、やはりある精神状態では見えることがあるんだろうな、と思いますね。自分の精神状態が、怪奇だとか、夜の闇の深さとか、そういうものに対して共鳴しなくなってしまったら、向こうも出てこないでしょう。 

辺見 ええ、こちら側にも共鳴板というんですかね、受け止める用意がなければ向こうも出たがらない、ということでしょうから。 僕の仕事部屋が神谷町にありまして、その近くに、お墓があるんですよ。青松寺っていうんですけど。それが夕暮れ時になると凄い光景でね、お墓が、煤煙のせいなのか、酸性雨のせいなのか、黒ずんでいるんですよ。それで、夕暮れ時になりますと突然向こう側にワーッと明かりがつくわけですよ。東京タワーなんですね。腰抜かすほど巨大なお灯明という感じがするんです。あそこは、精霊様というか、魂も東京タワーを一応目印にして戻ってくるのかな、というふうに感じますね。 

吉本 ああ、すごい光景ですね。僕の家の隣もお寺のお墓なんです。そういえば家を修理に来た大工さんがとても鋭敏な人で、よく「何か気配を感じる」なんて言っていましたね。 その大将が風呂場の修理をしてくれた後で、「吉本さん、修理もいいけど、13年以上保つような修理なんかしたって無駄ですよ」っていうんですよ。「なぜ」ッて訊くと、「いや、もうそのときは中国が原因で世界大戦が起こって……」という。天安門事件以前のことです。「へえ、そんなものかねえ」ってそのときは半信半疑でいなしてましたが、そのうち天安門事件が起きるし、改革開放やら何やらどんどん雲行きはあやしくなってくる。そういう直観の人が庶民の中にはいるんですね。 

辺見 その直観は案外に正しいかも知らんですよ。だいたい中国は徐々に食糧輸入国になりつつあります。最も悲観的な見通しだと、中国の穀物需要は2030年は6億4千万トンに達するけれど、生産は2億6千万トンだといわれています。つまり、輸入必要量は3億8千万トン。この数字が随分オーバーにしても、中国の胃袋を満たすような食糧輸出は戦略的物質ですから、北朝鮮に見られるとおり、危機に直結するし、戦争要因を作りかねない。そこでもろに煽りを受けるのが日本です。そういうことを考えても、とにかくこの先、「中国が原因で……」というのはなかなかリアリティのあるシナリオです。 それにしてもこういうことを夜考えると、際限なく悲観的になって来る。昼は、せいぜい明日の仕事のこととか、今晩何を食うかぐらいしか思考の射程が届かない。 

 (つづく) 

 吉本隆明・辺見庸 「夜と女と毛沢東」

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