ツインタワー・レクイエム

まずはじめに、なぜツインタワーなのだろうか?

世界貿易センターには、なぜ二つの塔がそびえていたのだろうか?

マンハッタンのあらゆる高層ビルは、それまでは、高さを競い合って対面していた。ニューヨークの建築の、あのよく知られたパノラマは、ここから生じていた。ところが、1973年に世界貿易センターが建築されて[日経建築家ミノル・ヤマサキが設計]、このイメージは一変する。システムの肖像は、このとき、オベリスクやピラミッドからパンチ・カードや統計の棒グラフへと移行したのだった。

建築によるこうした図増加が表現するのは、もはや狂騒的なシステムではなくて、デジタル的で会計帳簿的なシステムであり、そこでは、背の高さの競争は、ネットワークと独占のために姿を消すことになる。

塔が二つあるという事実は、起源に関するあらゆる準拠の喪失を意味する。ひとつしかなかったら、独占状態をこれほど完璧に体現することはできなかっただろう。記号の二重化だけが、記号がなにかを指し示すことを、ほんとうに終わらせることができる。そして、この種の二重化には、特別の魅惑がひそんでいる。ツインタワーは、たとえどれほど高くても、垂直性の停止を意味しているのだ。この二つの塔は、他のビルと同種の建築ではない。一方が他方を正確に映し出すことで、互いの頂点を確認するのである。

ロックフェラーセンター・ビルは、まだニューヨークの果てしない鏡となって、ガラスと鋼鉄のファサードをキラキラと輝かせていた。ツインタワーの方は、もはやファサードをもたない。顔がないのだ。垂直性のレトリックとともに、鏡のレトリックも消滅する。完璧に均衡のとれた、窓のないこれらのモノリスとともに残されたのは、ある種のブラックボックス、分身と重なって閉じられる一組のセットだけだ。まるで建築そのものが、システムの現状を反映して、もはやクローン操作と不滅の遺伝子コードからしか生まれないかのように。

つまり、ニューヨークは、その歴史を通じて、システムのあらゆる変遷とそのシステムの原罪の形を、驚くほど忠実にたどることができる、世界でただひとつの都市なのである。したがって、ツインタワーの崩落が・・・・・・それ自体が近代都市の歴史に先例のない出来事だが……このような建築形態と、それが体現するシステムの行く末を劇的に先取りしていると仮定しなくてはならない。情報、金融、商取引のデジタル化された純粋なモデルであるツインタワーは、まさにシステムの頭脳だった。そこを攻撃することで、テロリストたちはシステムの中心部の急所を突いたわけだ。

グローバル[アメリカ的システムの世界化]の暴力は、こうして、ガラスと鋼鉄とコンクリートの霊室[古代の石棺]を思わせる建築のなかで生活し、労働することの恐れをとおして、すでに立ち現われていた。そこで死を迎えることの恐怖は、そこで生活することの恐れと切り離せないものだ。だから、グローバルの暴力に対する異議申し立てもまた、ツインタワーの破壊をとおして立ち現われたのである。

この怪物じみた建築は、常に両義的な魅惑をひきおこしてきた。それは人びとをひきつけると同時にはねつける矛盾した形態であり、人びとはどこかで、ツインタワーの消滅を見とどけたいというひそかな願望を抱いていた。双子状の建築には、完璧なシンメトリーと二重性がつきものだが、それはたしかに美的価値であるとはいえ、とりわけ、形態に対する犯罪、形態の同語反復でもあり、そのような形態を壊してみたいという誘惑をもたらすことになる。ツインタワーの破壊自体が、この種のシンメトリーを尊重していた。数分の間隔をおいた二重の衝突がそうだ・・・・・・最初の衝突後のサスペンスは、まだ事故かもしれないと思わせるものだったが、二度目の衝突は、どちらもテロリストの行為であることのサインにほかならなかった[9・11では最初の自爆機は午前8時46分ノース・タワーに、次は9時03分サウス・タワーに激突した]。

ツインタワーは建築物であり、象徴的対象でもあったが、ねらわれたのはあきらかに象徴的対象としての性格のほうだったから、塔の物理的破壊が象徴的な意味での崩壊をもたらしたとも考えられるが、じつはその反対だ。象徴的対象への攻撃が物理的崩落をひきおこしたのである。まるで、それまで二つの塔を支えてきたパワーが急に無力化したかのように、まるであの傲慢なパワーが、世界に前例のない出来事のモデルになろうとする強烈すぎる奮闘に、突然屈したかのように、重すぎるシンボルを背負いつづけることに疲れ果て、塔は物理的に倒れたのだ。全世界が驚きの目で見つめる前で力尽きて、その場に崩れ落ちたのだ。

グローバルなパワーの規模が増大するほど、このパワーを破壊したいという気分がかきたてられるのは、まったく論理的な現象である。だが、それ以上に、パワーはパワーの自滅と共犯関係にある。内部から生じるこうした否認は、システムが完成と全能性に近づくほど強烈なものとなる。だから、すべては、ある種の予測不能な共犯関係を通じて、なしとげられたのでだ。まるで、システム全体が、その内的脆弱性のせいで、システムそのものを清算するゲームと、それゆえテロリズムのゲームに加わったかのように。神でさえ、自らに宣戦布告することはできないといわれたものだ。ところが、神にとってかわり、神のごとき全能性とモラルの絶対的正当性を手に入れた欧米世界は、やがて自殺的になって、自分自身に戦争を宣言するだろう。

ツインタワーのかわりに何を建設すべきか、という問題は、解答不能だ(じっさいには、2003年にダニエル・リべスキンドによるい再建案が選ばれている)・・・・・・破壊される価値あるものなど、何も創造できないのだから。ツインタワーは、まさに破壊される価値があったことになるが、他の多くの建築の場合、そうはいえないだろう。たいていのものは、破壊されたり、犠牲になったりするだけの価値をもたない・・・・・・威信と魅力のある作品だけが、その価値を持っている。このような考え方は、それほど逆説的なものではなく、建築に関する根本的な問題を提起する。他を圧倒する卓越性によって、破壊に値するものだけを建築すべきなのだ。いったいそんなものがあるかどうか、世界中を見わたしても、ごく少数のものしか見つからないはずである。

美しさや力強さが挑発となって、至上の作品が故意に破壊されるというテロ行為には、いくつかの有名な先例がある。エフェソスの神殿の犯罪的破壊[小アジア(現在のトルコ)の都市エフェソスのアルテミス神殿は紀元前356年放火によって破壊され、世界の七不思議のひとつとなった]、ヘリオガバルス帝のローマ[少年皇帝ヘリオガバルスの218年(14歳)から四年間の在位中にローマは混乱と破壊をきわめた]、ミシマ[三島由紀夫]の『金閣寺』の火災[1950年に放火で焼失。ミシマの作品は1956年刊]などだ。「民衆を時間から解放するために」グリニッジ天文台をダイナマイトで爆破しようとするアナーキストの陰謀を描いた、コンラッドの『密偵』[1907年刊]も忘れられない。


ジャン・ボードリヤール  「パワー・インフェルノ」

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