宗教の事件 20 西尾幹二「自由の恐怖」

オウム真理教とそれが引き起こした一連の出来事は、耳目をいたずらに聳動させた単なる猟奇的殺人事件にすぎなかったのだろうか。それとも、いまわれわれが口論を起こすに足るなにかを孕んだ事件であったのだろうか。それにしても、私はいまだに白日夢をみている思いがする。言葉が欠けている。事件は日本の社会になんのメッセージも伝えていない。 あのころ毎日のように私も情報を求めて、人並みに刺戟と恐怖をあさった。即座に私は、これは退屈が引き起こした事件に相違ない、と思った。それはこのうえなく深く、かつまた広く行き渡った退屈である。この種の退屈を感受する能力は一定の知力を前提とする。犯人には高学歴者が多いと聞く。知性にとって、退屈は生存の根底にただよっている不安であり、苦悩である。あまりに過度になると、古来、人間を自殺にでも駆り立ててきた。さりとて行動への直結が知的能力の高さと比例するわけではない。 退屈しているのはわれわれ市民社会の側にしても同様である。われわれはつねに日頃さりげなく健康に気を配り、他人と衝突せぬように心をくだいて生きているが、それだけでは快い夢をみつづけることはできない。われわれは自分の人生になにほどかの毒を盛る知恵を心得ている。オウム騒動のあの一時期、自分自身が恐怖に出会うのはいやだが、明日はなにかもっとすごいことが起こるかもしれない、という不安と緊張、そしてかすかな期待を胸に抱きつつ、真夜中のテレビニュースを切って、快い眠りについた人は少なくなかったであろう。毒は多すぎても少なすぎてもいけない。しかし、ことによると?という懸念はときとして人の胸を突き上げた。国民が、ことに大都市の住民が敵襲による集団的恐怖をほんのわずかでも共有したのは、B29の空爆以来の出来事であったといえるであろう。 それでいてなんともバカバカしい。どうにも本気になれない。その無意味さが、ひたすらわれわれを腹立だしくさせてきた。「一網打尽」という言葉があるが、もうこうなったら警察は犯人たちを一網打尽にふん縛ってほしい、とわれわれは顔の前の蠅を負うような気楽な腹立だしさに襲われるのを避けることはできなかった。そのように期待するのも、われわれの深い退屈感に由来する。ほんのタッチの差で百万単位の人間が突如理由なき殺戮の憂き目にあったかもしれない、というような恐怖の記憶も、あり得ない悪夢のように次第に遠ざかり、忘れられていくであろう。 (つづく) 西尾幹二 「自由の恐怖」(文藝春秋 1995年11月初版)

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