村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 耳をすませて

「もうずいぶん長い間加納マルタから連絡がありません」と僕は書いた。「彼女もまた僕の世界からあっさり姿を消してしまったようです。人々は僕の属する世界の縁から一人また一人と静かにこぼれ落ちていくみたいに思えます。みんなあっちの方にずっと歩いていって、突然ふっと消えてしまうのです。多分そのへんのどこかに世界の縁のようなものがあるのでしょう、僕は特徴もない毎日を送りつづけています。あまりにも特徴がないので、前の一日と、つぎの一日との区別がだんだんつかなくなってきます。新聞も読まないし、テレビも見ないし、外にもほとんど出ません。ときどきプールに泳ぎに行くくらいのものです。失業保険もとっくに切れてしまったし、今は貯えを食いつぶしているわけですが、それほどの生活費を必要とはしませんし(クレタ島に比べれば生活費は高いかもしれないけれど)、母親の残してくれたちょっとした遺産のお蔭でまだ当分は食いつないでいくことができそうです。例の顔のあざにもこれといった変化はありません。でも正直に言うと、日にちが経過するにつれて僕はだんだんこのあざが気にならなくなっていきます。もしこれを抱えたままこの先の人生を生きていかなくてはならないのであれば、抱えて生きていこうと思っています。あるいはこれは僕が抱えていかなくてはならないものなのかもしれないとも思えます。どうしてか自分でも理由はわかりませんが、なんとなくそう思うようになってきたのです。いずれにせよ、僕はここで静かに耳をすませています」


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」

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