音楽会

運のいいときはいいもので、ぼくは洗面所で音楽会の切符を見つけた。羽毛のようにうきうきと、ぼくはサール・ガヴォへ出かけて行った。案内人は、ぼくが知らぬ顔をしていて彼にわずかなチップもやらないので、ひどく落胆していた。僕のそばを通るたびに、彼は、ぼくが急にチップのことに気がつくのを期待するのか、意味ありげにぼくの顔を見た。

りっぱな身なりの人々と同席するのは久しぶりなので、ぼくはすこし狼狽気味だ。ぼくの鼻はまた蟻酸アルデヒドの匂いを嗅ぎつけた。たぶんセルジュは、ここにも配達しているのだろう。だが、ありがたいことに、からだを掻いている人は見あたらない。ほのかな香水の匂い……じつにほのかに匂うのだ。音楽のはじまる前から、人々の顔には例の退屈そうな表情がある。みずから課した拷問の礼儀正しい形式、音楽会。一瞬指揮者が小さな棒で叩くとき、はりつめた精神集中の痙攣が起るが、たちまち全体的に気分が崩れ、おだやかな、植物的な安息が、オーケストラからの着実な、邪魔されることのない細雨によって、もたらされる。ぼくの心は不思議に敏感だ。まるで頭蓋骨のなかに無数の鏡があるかのようだ。神経は緊張しきってぴりぴりしている、音楽は百万の噴水の上で踊っているガラス球のようだ。ぼくはこんなに空腹のまま音楽会へきたことがない。何ひとつ、ぼくは聞きもらさない。小さな針一本落ちる音でも、まるでぼくは一枚も着るものをつけず、毛穴の一つ一つが窓になる、その窓が全部開いて、光線が腹の中に溢れているような気がする。その光が、僕の肋骨の円天井の下で屈折し、肋骨は、反響にうちふるえているうつろな本堂の上にかかっているのが、ぼくにはよくわかる。この状態が、どのくらいつづくものか、ぼくには見当がつかない。僕は、時間、空間の感覚を、すべてうしなってしまう。永遠とも思われるものが終わった後に、自分の内部に大きな湖水があるのを感じるほど冷然とした沈静によっておぎなわれた半意識の状態が、しばらくつづく。それはジェリイのように涼しく、燦然たる光彩にいろどられた湖水で、いま、この湖水の上に、巨大な螺旋を描いて、無数の鳥の大群、すらりとした長い肢と華麗な羽毛の魁偉な渡り鳥の大群があらわれる。一群、また一群、鏡のごとく冷やかしにしずまった湖面から天翔けって、ぼくの鎖骨の下を過ぎ、空間の白い海に姿を消す。やがて、ゆっくりと、まことにゆっくりと、白い庇帽をかぶった老女がぼくのからだのまわりを歩くようにゆっくりと、毛孔の窓は閉じられ、僕の内臓は空間のそれぞれの位置におさまる。急に灯火が明るく燃え、白いボックスのなかの、トルコ人の将校ででもあるかと思っていた男が、実は頭の上に花瓶をのせた女だったと気がつく。

ざわめきが起り、咳をしたかった連中が、いっせいに心ゆくまで咳をする。足を引きずる音、座席を持ち上げる音、目的もなくからだを動かしたり、プログラムをひらひらさせて読むような顔をしたかと思うと床へとり落として、座席の下を足でごそごそやったり。人々は絶え間なくざわざわ音をさせて、どんなにくだらぬ出来事に対してでも、自分たちはいったい何を考えているのかと自問したくなるのを邪魔してくれさえすれば、それに感謝するのである……彼らは、いま自分たちが何を考えているかを知ったら、気が狂うに決まっているのだ。強烈な灯火の中で、彼らは空虚に、たがいの顔を眺めあう。その眺めあう凝視にはなにか奇妙な緊張がある。そして、指揮者がまた棒で叩くと、人々は、ふたたび硬直状態に戻る……無意識にからだを掻くか、さもなければ急にどこかのショー・ウインドーに出ていたスカーフとか帽子とかを思い出す。彼らは、そのウインドーを隅から隅まで、びっくりするほど明瞭に思い出すが、それがどこにあったかは、はっきり思い出せない。そのことが彼らの心を騒がせ、落ちつきをうしなわせ、睡気を失わせる。それで、いま彼らは改めて注意力をかきたてて音楽にきき入る。なぜなら彼らは睡気をさまされ、どんなすばらしい音楽だろうと、あのショー・ウインドーと、そこにぶらさがっていたスカーフなり帽子なりを意識するのをやめさせてくれないからだ。

そして、この強烈な注意力の集中は他にも伝達される。オーケストラまでが感電したように異常に敏感になる。第二曲目が独楽のように爆発する……あまりテンポが速いので、とつぜん音楽が終わって電灯がついたとき、聴衆のなかには、にんじんのように座席に突き刺さったままでいるものもある。顎が、ひきつれるように動いていて、もし、いきなり彼らの耳に、「ブラームス、ベートーヴェン、メンデレイエフ、ヘルツェゴヴィナ」とでも叫んでやったら、おそらく彼らは何も考えずに返事をするだろう……4,867,289

ドビュッシィの曲まで進んだころには、雰囲気は、すっかり毒されている。ぼくは自分が、もし俺が女だったら性交中どんな気持がするだろうかとか、快感は女のほうが鋭いのだろうかとか、そんなことを考えていることに気がつく。股ぐらへ何かが押し込まれるのを想像してみる。しかし、ぼんやりした苦痛の感覚だけしかない。僕は注意を集中しようとするが、音楽は、つるつるとすべって、つかまえどころがない。ぼくには、花瓶が一つ、ゆっくり廻転して、その模様が落ち散ってゆくことだけしか考えられない。しまいには廻転している光だけになり、どうして光が廻転するのかと、ぼくは自問する。隣の席の男は、ぐっすりと、よく眠っている。大きな下腹や蝋づけしたみたいな口髭から察するに、この男はブローカーらしい。こんなふうな男を、ぼくは好きだ。とくに、その大きな下腹と、この腹を大きくするために詰めこまれたすべてのものが好きだ。なぜ、この男は、こんなによく眠るのだろう?もし音楽をきくつもりなら、この男は、いつだって切符の料金ぐらい稼ぐことができるのだろう。僕の観察では、よい身なりをした連中ほど、ぐっすりとよく眠っているようだ。金持は気楽な良心をもっているのだ。貧乏人は、ほんの2,3秒でもうとうとすると、ひどく後悔する。作曲者に対して罪を犯したように妄想する。

スペインの曲がはじまって、場内は電気にうたれたようになる。みんな椅子のふちにまっすぐになっている……ドラムが彼らの眼をさましたのだ。ドラムが鳴り出したとき、ぼくには、それが永久に鳴りつづけるのかに思われた。人々が桟敷からころがり落ちたり、帽子を投げだしたりする光景が見られるかと思った。その曲には何かヒロイックなものがあり、彼……ラヴェルは、もしその気になれば、ぼくたちを狂気に駆りたてることができたかもしれない。だが、それはラヴェルではない。急に、すっかりやんでしまった。まるで道化芝居の最中に作者が前裾の開いたスーツを着ていることを思い出したかのようだ。彼は自分を抑制したのである。ぼくの貧しい意見では、これは大きな失敗だ。芸術は行くところまで行くことによって成り立つ。もしドラムからやりだすなら、最後はダイナマイトか高性能爆弾で終らなければならない。ラヴェルは、形式のために、人々が寝る前に消化しなければならない野菜のために、何ものかを犠牲にしたのである。

ぼくの思いはひろがる。音楽は、ドラムがやんでから、僕から遠のいてゆく。場内の人々は、みな秩序整然としている。出口の灯火の下に、ウェルテルが一人、絶望に沈んでいる。両方の肘をついて、身をかがめ、目がうるんでいる。ドアの近く、大きなケープにくるまって、スペイン人が一人、緑広帽子(ソムブレロ)を手に持って立っている。まるでロダンの『バルザック』のポーズをしているようなかっこうだ。頸から上はバッファロ・ビルを連想させる。僕の真向いの向うの桟敷、最前列に、股を大きく開いて腰かけている女が、頸が抜けたように頭をぐっとうしろへそらしている。赤い帽子の女は手すりにもたれて居眠りをしている……もし器官から血を出しでもしたらすばらしいのだが!もしも、いきなり下にいる糊のきいたシャツの上にバケツ一杯の血をこぼしでもしたら、あの下劣なろくでもなしどもが、シャツの胸に血をつけて家へ帰るところを想像するがいい。

眠りがキイ・ノートになった。誰も、もうきいていない。考えたりきいたりすることは不可能だ。いくら音楽そのものが夢にすぎないとしても、夢をみることは不可能だ。白い手袋の女は、膝に白鳥を一羽抱いている……伝説では、レダが孕ませられたとき、彼女は双生児を生んだ。誰でもみな何かを生んでいる……誰でもといっても上の雛段にいる同性愛の女は別だが。彼女は頭をそらし、咽喉を大きく開いている。彼女は敏感そのものだ。ラジウムのシンフォニーから炸裂する火花のシャワーでぴりぴりしている。ジュピターが彼女の耳をつらぬいている。カリフォルニアからの短信、大きな鰭の鯨、ザンジバールの宮殿、グァダルキヴィㇽ河に沿うて行けば、千百の回教寺院、おぼろに浮びいでたり。氷山の奥ふかく、ライラック匂う日々。二本の白い馬繋ぎの杭があるマネー・ストーリート。樋嘴(ガーゴイル)・・・・・・ヤヴォㇽスキーのナンセンスをもっている男・・・・・・河の灯・・・・・・あの・・・・・・。


ヘンリー・ミラー  「北回帰線」

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