宗教の事件 85 橋本治「宗教なんかこわくない!」

それはともあれ、オウムのヘッドギアは、修行のためだ。別に、ハタから強制されてあれをしてるんじゃない。めんどくさい“ワーク”をするんでも、あれをかぶったまますれば、気が散ったりはしない。「自分はいま“自分の修行に集中している」という気分になれる。オウムのヘッドギア―=ウォークマン説がそれだが、オウム真理教というところは、“すべてが自分の修行になる=自分のためになる”という、信者にとっては“素晴らしい世界”だ。誰かに騙されているわけでもないし、いやだと思うことを誰かに強制されているわけではない。日本の会社社会に欠けている、“自分のため”という目的が、ちゃんとここにはある。信者の多くはそう思っているのだろう。「ここに入ればだれにも邪魔されることなく、“自分のこと”に集中できる」と。
オウムの最大の特徴は、ここが、孤立したエゴイストの集団になってしまっているということだ。

ある日、上九一色村になるナントカサティアンの掃除をしていた若い信者が、高い建物の上から転落してしまったんだそうな。地面に倒れて血を流していても、仲間の信者は知らん顔なんだそうな。見かねた三十過ぎの男の信者が、その倒れた仲間の頭から流れる血を拭いてやって、でも、それだけだったんだそうな。見かねた警備中の機動隊員が救急車を読んで、病院に運ばせた・・・・・・ということを、テレビでやっていた。「なんてひどいことをする鬼のようなやつらだ」なんてことを言ったら可哀想だろう。彼等は、そういう場合にどうしたらいいかを知らないのだ。人間は、教えられたり学習したりする機会を奪われたら、とんでもないことまで“知らないままでいる”のだから。

オウム真理教が若い人間を相手にして“とてもよく出来た組織”だというのは、このように、孤立して“助け合うということを知らないままでいる人間たちを集めて、それでも“組織”として成り立っている点にある。これは、とっても驚くべきことである。「どうすればそんなことができるのか?」と知りたがる会社経営者はいくらでもいるだろう。でも残念ながら、それはナミの人間には無理なことだ。

オウム真理教が麻原彰晃を頂点とするピラミッド構造の組織であることは、もうよく知られている。「だから、なんでも信者は言うことを聞くんだ」になったら、きっと間違いだろう。今時の自分のことしか考えない若いやつらが、“ピラミッド構造の組織”なんてもんにおとなしくおさまっているか?・・・・・・というのである。尊師の言うことは聞いても、すぐ上の幹部のいうことなんかバカにして、ロクすっぽ聞いてやしないということは、いたって当たり前に起こるだろう。だから、このピラミッド組織は“仮のもの”なんだと思う。ピラミッド構造の教団組織はあって、しかし信者たちはそこにおさまりきらないように揺れていて、尊師対信者の一対一の忠誠心がこの組織を支えているのだとしか考えられない。

麻原尊師は、なにかあるとすぐに信者のところに電話をかけてくる人なんだそうな。信者のところに電話をかけまくる教祖などというのは、聞いたことがない。「そんなに忙しいのか?」と、私なんかは仰天してしまうのだが、「偉い尊師がわざわざ自分のところに電話をかけてくる」なんてことになったら、普通の信者はひれ伏してしまうだろう。しかし、オウム真理教という新興宗教教団は、尊師と信者が一対一でつながっているようなものだ。だから、この教団の本当の組織図は、デコボコのある平面に信者が散らばっていて、その上にただ一人麻原尊師が宙に浮いているような形になるはずなのだ。だからここでは、なによりも“尊師”が一番大切になる。尊師と信者は一対一でつながっていて、信者は、「尊師がそうおっしゃるんだから、あのつまらない幹部が指揮を取る組織の中におさまっていてやろう」になるのだろう。今時の自負心だけは強い自主性のある若者相手だったら、そうでもしなければ“組織”なんてものは構成できない。だから、すべてはとっても不思議なことになる。

麻原彰晃こと松本智津夫が逮捕されて、信者の心は揺らいでいる。しかし、それであっても、多くの信者の心は揺るがない。揺らいでいて教団を離れたとしても、多くの信者は、自分の中にある“麻原尊師”というものの存在を否定しきれない。それは“麻原彰晃の教え”というものがあって、“信者になってしまった自分”というものがあるからだ。“自分から納得して進んで信者”になったのなら、当然そうだ。だからこそ、“麻原彰晃の教えの真実”というものがあって、“その教えに納得した自分”というものがある。だから、この信者にとって、“麻原彰晃”というものの存在がなくなったら困る。そんなことになったら、自分の人生のなかで最も充実していたある機関が、そのまますっぽり欠落してしまうからだ。人間にとって最も辛いことは、充実していて幸福だった過去の記憶を根こそぎ奪われてしまう事である。だから、人間の心は、これに反抗する。麻原彰晃は“正しいもの”として存在していなければならないのだ。信者の胸の中には、そういう主観的な“真実”がある。


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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