宗教の事件 96 吉本隆明・小川国夫「宗教論争」

吉本 「僕は、オウム真理教が事件として報道された時点で、すでに水面下での闘いは終わっていたという気がしています。これは政治的な観点の問題ですが、宗教、チベット仏教やヨーガに関心がなかった人たちにまでオウムが知られたときには、官憲や被害者教授の党派弁護士との闘いに敗れて追い詰められていた、という理解もできます。」

小川 「こうしたことをリアルタイムで考えることは危険が伴うんです。だれに対して危険かと言えば、亡くなった方々の遺族は傷つけはしないかという危険です。それにしても、吉本さんもそして私も、それは仕方がないことだったとは思っていないことは確かです。痛恨事だと思っています。一方、麻原のことを考えてみると、自分は手を下さないで、かなりの数の人間を使って殺人をやらせているんです。こんなことは軍隊でなければ、決して出来ることではない、だから麻原はそうとうなタマだ、と吉本さんは分析するし、私は、相当なタマでなくても、場合によってはできることもある、彼は単なる機能にすぎないと見るわけです。私はこのように見方の違いがあって当然だと思っています。しかし、正義の旗手のつもりの人たちはそうではない。自分たちのように画一的な答えを出さないのはおかしいと馬車馬的に言うわけです。彼らだって殺人はいっぱい知っているでしょう。様々な死があったはずです。それぞれ本質的に違っていたのに、見極めもしないどころか、関心も示さなかったケースも多いと思うんです。だがオウム事件に限っては、そこに目を据えてしまっていて、自分の目以外に他の目はあり得ないと思っているんです。

彼らは対立の構図を作り出してしまい、信じて疑わないのです。もともと対立の構図はオウムの中にあったもので、追い詰められるにつれて固定観念になっていった、と私は見ているのですが、そのオウム的原理が波及してきたというか、それに挑発されてしまったというか、反オウム側も強固な対立の構図を作りあげてしまったのです。そして、それに賛成しないものはおかしいと言わんばかりです。もちろんこうした在り方は間違いです、オウムに降参しろと言っているのに、奴らはしたたかだ、というわけでしょう。もしオウムがしたたかでなければ、集団自殺するかもしれないのですよ、今の状態はそういうことが起こってもおかしくないと思うんです。そのときになって、怖いものがなくなってすっきりした、とでもいう気なんでしょうか。ですから僕はここでどうしても必要なのはオウムでもない反オウムでもない第三の原理、あるいは第四の原理、第五の原理だと思うんです。象徴的に言うなら、最終戦争の影に駆り立てられているとでもいった状態なんですから、突破口を見つけなければならない、というのが僕の考えなんです。」

吉本 「こういう左右連合の意識に中で異口同音の意見を述べて、少しでも違うことを言うと仲間外れと言う日本の状況を見ると、今世紀の日本社会が終わりに来た兆候と思いますね。オウムと阪神の大震災で、今世紀も終わりだな、いよいよ日本はフランスと同じ死後の世界だな、と。死後の世界というのは、麻原彰晃が言うような意味ではありません。ここまで発展し存続して来た社会の通念が、どん詰まりに来て、違う社会に移るという意味です。どんな社会でに移行するかというイメージはまだわかりませんが、移るのは死後の世界ですよ。

それに鋭敏な人は、すでに死語の世界に反応していますね。たとえばフランスでいえばボードリヤールは、フランス社会は既に死んでいて、言うことは何もない。でも死後の世界がまだ存続しているんだから、できるだけ荘厳に、綺麗に飾らなきゃダメということを言っています。それから先日自殺したドゥルーズ。病気が原因で自殺したというけれども、自殺の意味はそれだけではないと思う。だいたい終わったな、特にフランス社会は終わって、もうどうすることもできないよ、と実感したのが自殺の理由だと僕は理解しています。」

吉本 「やはり、オウム事件の主体は、宗教宗派の問題であって、教祖の人間的深さ、修練をつんでいたということも考慮に入れなければならないと思います。その上で、彼らが無差異の悪をなし得る根拠が一体何で、それには弁解の余地がない、と言わなければならないと思うんです。オウムを解体するところまで追い詰めたのは確実かもしれないけれど、オウム事件にわずかでも宗教的意味があったということを評価に入れていないと、評価自体がダメになる危険がありますから。」

小川 「他にも、オウムの選定となる神は何か、ということも解明されるべき問題だと思います。先ほど少し触れましたけれど、親鸞は、仏陀の真意はどこにあったのかを解明しようとした。パウロもまた然りですね。ユダヤ教の神の真意はどこにあるか、苦しんで答えを求めた。麻原は、チベット教の教理を組み込んでいると言っています。だから、国会であったか、チベット仏教の偉い方を呼んでオウムにマインドコントロールされた青年を逆洗脳する委員をつくると言っている。しかし、チベット仏教の教理が組み込まれているといっても、そこに順応していったのかというところまで明らかにしなくてはならない。チベット仏教の古い修行者は、麻原はダメだと言ってますが、それに対してどう反論するのでしょうか。自分こそチベット仏教の本当の意味を突き止めたのだから、あなたこそダメだといわなければならないところを、麻原は何も言ってません。

吉本 「この事件にまつわることは、麻原彰晃の宗教的世界観も含めて、とにかく余すところなく徹底的に解剖しつくさないと、あとあといろんな問題が残ってしまうと僕も思っています。」

小川 「オウム事件で、社会の側の様々な問題も明らかになりましたね。まず、宗教悪とでも呼ぶべき者の基盤がかなり見えたと思います。今、アメリカや世界各地でカルトといわれる宗教集団が増えています。宗教の名を冠することで、組織が成立し、悪の行為に現実的意味を与えてしまう。これはタブーです。日本の場合。宗教悪の呼び水となったのは、ほかならぬ宗教学や文化人類学です。離れ島の灯台のように客観的相関関係がない麻原の最終解脱や、ニューエイジ・ブームなどの精神世界を安易に肯定する雰囲気を生んだのは、宗教学・文化人類学に責任がありますよ。たしかにこうした分野の著者たちは着眼もいいし、論旨の展開もいいんですが、自分の書いたものはおもしろい読物ではあっても、社会的な有効性はないんだと自覚してほしいものです。」

吉本 「日本では学生運動の退潮も原因でしょうね。現実を変革しようとする若者層が、政治や思想ではなく、チベット仏教などの宗教に関心を持つようになった。僕らの時代には、社会学・政治学的次元という防壁を設ければ、社会的事件の問題などが判断できるという状況がありました。ところが複雑な高度社会になって来て、何が真実なのかわからないから防壁が設けられない。確実に判断できる、最後の防壁となるのは、自分の身体の好調・不調ぐらいです。だから、自分の肉体に切実に引っ掛かってくる問題へ関心が深まり、そこから宗教、そして現世否定へと向かうのでしょう。しかし、現実否定という面では、オウムがレベルを飛躍させてしまった。ざまみろ連合赤軍や全共闘という気持ちも僕はありますが。」

小川 「それから、薬の一般的普及という問題がありますね。宗教集団が薬・化学製品を簡単に使用できるようになった。サリンの製造はもちろん最大の問題ですが、LSDなどの脳や肉体に作用する薬を、カルトが使い始めたということの意味を見極める必要があると思います。吉本さんは詳しいと思うんですが、これは、比叡山や高野山の幻覚作用を、化学製品で置き換えているといえるんでしょうか。」

吉本 「日本の僧侶は律令制の中に組み込まれていたんですが、その域外で出家して修業をする人々、つまり山伏とか修験道の行者がいますね。そこでは、自然の植物の幻覚作用を使うということはあったらしいですね。幻覚剤の伝統は、日本にもカルト以前からずっとあるんです。一般に、制度の外にいる方が厳しい修業が必要とされる。中沢新一さんによれば、ダライ・ラマのような高僧より、その辺に坐っている乞食のような修行者の方が、精神世界の修業の面ではずっと上ということはあるそうです。」

(つづく)

吉本隆明・小川国夫「宗教論争」

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