伊達宗克「裁判記録 三島由紀夫事件」 上申書②

上申書②
小川正洋被告の上申書(要旨)

私が天皇や日の丸に愛着のような気持ちを持つようになったのはいつごろか自分でもわかりません。

母親から木口小平の話や、広瀬中佐の話等を聞かされた記憶はありますが、思想的にどうこうと聞かされたことはありませんでした。

中学二年生のとき、同級生が「天皇は税金泥棒だ」と言ったことに腹がたち、その同級生を思わず殴ってしまったことがありました。思想的にも政治的にも目覚めているはずがなく、自分の行為に自分でも驚きました。

高校二年生の時、天皇と自衛隊についてクラス討論が行われました。

自衛隊については「憲法を改正して軍隊にすべきだ」という私の意見と、「自衛隊は必要ない、非武装中立になるべきだ」という意見にわかれ、討論しましたが、私の意見に賛成する者はいませんでした。

私は「俺は天皇を崇拝している。自分でも何故だかわからない。日本人としての血がそうさせるのだろう。日本は一民族、一国家、一言語だ。建国以来、延々と続いて、また神秘こそ我々日本民族の家で、精神のよりどころだ。天皇を一個の人間としかとらえることができないのは、心が貧しいからだ。天皇に類するものが他の国にあるだろうか」と答えられる程度でした。

昭和四十二年、明治学院大学に入学し、四十三年ごろ、日本学生同盟員になり活動を始めました。

同年五月、八王子の大学セミナーハウスで理論合宿があり、三島由紀夫、林房雄、村松剛の三先生を招いての話し合いもありました。

三島先生の「右翼は理論でなく心情だ」という言葉はとてもうれしいものでした。

自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共に受けました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生について行けば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました。

楯の会の例会等を通じて、先生は「左翼と右翼の違いは“天皇と死”しかないのだ」とよく説明されました。

「左翼は積み重ねの方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信ずるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。政治は結果責任を負わなければならないが我々は行動責任だけは負わなければならない。武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ」

と教えてくださいました。

先生は「われわれには誠しかない」というのも口ぐせでした。また、「文武両道の文は、あくまで一人で追及するもので、勉強会等を通じて学ぶものではない」とのお考えでしたから、陽明学についてもこういうものだとの教えはありませんでした。

天皇を文化概念の象徴としてとらえ、侵されてゆく日本を守るためには、あとに続く者を信じて行動しなければならなかったのです。自分がいまここで、日本を守らねば駄目だという使命感。それが日本人としての信義であり、誠であり、真心だと信じました。

私たちが行動したからと言って、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです。

天皇に対する恋は永遠の片恋です。それを承知で恋するのが忠義と信じました。

最後に、私を行動させたものがなんであるかとひところで説明するなら

天皇への恋心

と申し上げる以外にありません。


伊達宗克 裁判記録「三島由紀夫事件」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?