内田樹「期間限定の思想」 苦痛の経験について

動物虐待と幼児虐待はおそらく同根の現象だろう。どちらも人間が保護し養育すべきものを当の人間が加害するというものだ。

虐待について、メディアではつねに二つの事実が繰り返し指摘されている。

一つは「他人の痛みが分からない人間がいる」ということ。

一つは「加虐する人間は、その人もまた他の人間から虐待されていた過去を持つ」ということである。

もっともな指摘だと思う。

しかしこの二つの命題をじっと見ていると「何か変」であることに気づく。

ここには矛盾があるのだ。

だって人から「痛い目にあわされた」人間は、「痛み」というのどういうものだか知っているはずだからである。「痛み」がどういうものだか知っている人間が、「他人の痛みは分からない」ということがありうるだろうか?

ありえない。

「鰻丼」がどういう味だか知っている人間だけが、「他人が食べている鰻丼」に生唾を呑み込む。

「厚揚げにシェリー酒をかけてバジリコと刻みにんにくで和えたもの」は、どんな味がするのか見当が付かないので、他人がそれをぱくぱく食べていても反応しようがない。

そういうものである。

「痛み」がどういうものだか分かっているものだけが、「他人が経験している痛み」を想像することができる。だから、他人に痛みを与える人間は、痛みとは何かを知っているのだ。

「じゃあ、どうして、そんな自分が経験して嫌だったことを他人にするんですか」

そう、君の言うことはまったく正しい。

人間は自分が経験して嫌だったことは他人にはしない。それがロジカルな考え方だ。

しかし、実際にはそうではない。むしろ逆である。

例えば、体育会というところには先輩による「しごき」というものがある。

私はかつて大学体育会空手部というところで青春の一時期を過ごしたことがあるので、そのメカニズムは熟知している。ここでは、入部ほやほやの下級生は上級生やOBからの不条理な暴力にさらされることがある。

私が一年生だったとき、真夜中にしばしば泥酔したOBが寮の部室に乱入してきて、新入部員たちを叩き起こした。そして、稽古衣に着替えさせられて、真夜中に「銀杏並木の端から端まで突きをしながら往復」というようなとんでもない練習を強要されたのである。

そのつど下級生たちは、自分たちが上級生になったら、こんな悪習はぴたりとやめて下級生をかわいがろうな、と約束するのであるが、不思議なことに、いざ自分たちが上級生になりOBになると、いじめられた恨みの深い人間ほど、気合いを入れて下級生いじめに励むようになるのである。

なぜか、私たちは、自分が経験させられて苦痛だったことを、他人にも経験させようとする。君のように、「自分がつらい思いをしたから、他人には同じ思いを味わってほしくない」というふうに考える人は少ない。驚くほど、みごとに、少ない。

なぜなのか。

ある女性の大学教員に聞いた話であるが、彼女が出産したあと、育児のために半年の休職を申請したら、先輩の女性教員から「私は出産後三週間で教壇に立ちました」と言われて、申請を取り下げるように命じられたそうである。

「出産後三週間で今日に立つ」のはその先輩教員ご本人だって苦痛だったはずである。しかし、彼女は、その苦痛を「後輩にだけは味わってほしくない」とは考えず、「後輩にも等しく味わってもらいたい」と考えたのである。

どうしてなんだろう。

この例だと空手部のケースより話が分かりやすい。

「私はこんな苦しい目にあったけれど、それに耐えて今日の地位を築いたのよ、だから、私をもっと尊敬しなさい。」

彼女はそう言いたかったのである。

他人に苦痛を強いることで、彼女は「苦痛に耐えた経験への敬意」を要求しているのである。

空手部の「しごき」も実はこれと同一の構造をもっている。

自分が経験したのと同じ苦痛を他人に強いる人間は、それに耐えたことへの「敬意」を求めているのである。

ひとはできるだけ多くの敬意を求める。

だから、必ず人は自分が経験した苦痛を(実際より)少しおおめにして回想することになる。

「夜になるとOBが来てさ、オレらが麻雀してると割り込んできちゃって、『二抜け』の奴はしかたないから、外で巻藁ついて時間潰してたんだよ」というような真実が、三年後に下級生に説教するときは、「ワシラのときはの、しょっちゅう真夜中にOBが来ての、寝ているのを叩き起こされて、朝まで稽古させられたんじゃ、おう」というふうに微妙に過去の改変がなされるのである。

だって、話は大きい方が、下級生の目に宿る経緯が高まりそうだからである。

苦痛に「耐えた」経験が、本人にとってプラス価値に転用可能であると知るや、人間は必ずその「痛み」を「過大申告」するようになる。そして、やがてそれが、深刻な帰結を導くことになる。

それは、「物語られた想像的な苦痛」は本人にとって、やがてそのリアリティを失ってしまうからである。

「死ぬほどしごかれた」経験を、私たちはすぐに笑いながら回想するようになる。だって、苦痛に耐えた経験については、青ざめて震えながら回想するより、笑いながら回想する方が、他人から「より多くの敬意」が得られそうな気がするからである。

そうやって、苦痛の経験者は、「話を大きくする」と同時に、自分が経験した「ほんとうの痛み」がどんなものだったかを忘れ始める。

そういうものなのだ。

「自分が経験した痛み」を他人にも強要する人間は、「他者の痛み」が想像できないのではない。「自分が経験した痛み」を思い出せなくなっているのである。「他者の痛み」ではなく、「自分の痛み」を忘れてしまったのである。

「私はその痛みに耐えた」という自尊心を手に入れる代償に、痛みはそのリアリティを失ってしまったのである。傷はもう「痛まない」。だから、いくらでも他人に傷を与えても、少しも「痛くない」のである。

(中略)

私たちは生きている限り、さまざまな痛みを経験する。

親に虐待されることもあるし、友だちにいじめられることもあるし、教師になぶられることもあるし、上司や取引先にこづき回されることもある。

でも、その暴力の伝播を誰かが停止させなければならない。

その苦痛をそれ以上伝播させないためには、その痛みをどう記憶し、どう回想し、どう記述するか、という「痛みを語る」水準において、細心な配慮が必要であろうと私は思う。

逆説的なことだが、「痛み」の経験をそれ以上増殖させない他の方法は、「まじめに痛がる」ことなのである。

「あんな痛み、たいしたことない」というふうに強がって他人からの称賛を期待したり、「あの痛みに耐えた経験があればこそ、私の今日はある」というふうに「苦痛は成長の契機」説によって合理化することを拒否し。「痛いものは痛い」と弱々しく震えることが必要なのだと私は思う。


内田樹 「期間限定の思想」

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