中島敦「かめれおん日記」 困る

実際、近頃の自分の生き方の、みじめさ、情なさ、うじうじと、内攻し、くすぶり、我と我が身を噛み、いじけ果て、それで猶、うすっぺらな犬儒主義(シニシズム)だけは残している。こんな筈ではなかったのだが、一体、どうして、又、何時頃から、こんな風になって了ったのだろう?兎に角、気が付いた時には、既にこんなヘンなものになってしまっていたのだ。いい、悪い、ではない。強いて云えば困るのである。ともかくも、自分は周囲の健康な人々と同じものの感じ方、心の向い方が、どうも違う。みんなは現実の中に生きている。俺はそうじゃない。かえるのたまごのように寒天の中にくるまっている。現実と自分との間を、寒天質の視力を屈折させるものが隔てている。直接外のものに触れ感じることが出来ない。はじめはそれを知的装飾を考えて、困りながらも自惚れていたことがある。しかし、どうもそうではないらしい。もっと根本的な・先天的な・ある能力の欠如によるものらしい。それもひとつの能力でなく、いくつかの能力の欠如である。例えば、個人を個人たらしめる・最も普遍的な意味においての・功利主義が私には欠けているようだ。また、ものを一つの系列・・・・・・ある目的へと向かって配列された一つの順序・・・・・・として理解する能力が私にはない。ひとつひとつをそれぞれ独立したものとして取り上げてしまう。一日なら一日を、将来のある計画のための一日として考えることができない。それ自身の独立した価値を持った一日でなければ承知できないのだ。それから又、ものごと(自分自身も含めての)内側に直接はいっていくことが出来ず、先ず外から、それに対して位置測定を試みる。全体におけるその位置、大きなものと対比したその価値などを測ってみるだけで失望して了い、直接そのものの中に入って行けないのだ。(中略)・・・・・・つまり、何事をも、(身の程知らずにも)永遠と対比して考えるために、まずその無意味さを感じてしまうのである。実際的な対処法を講ずる前に、そのことの究極の無意味さを考えて(本当は感ずるのだ。理屈ではなく、アアツマラナイナアという腹の底からの感じ)一切の努力を抛棄してしまうのだ。


中島敦 「かめれおん日記」

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