吉本隆明「幸福論」それからもう一つ、人が誤解していると僕が思っていることがあります。

それからもう一つ、人が誤解していると僕が思っていることがあります。

重体になってくるころには、酸素マスクをどうしたとか、管をたくさんくつけられて、見ているとときどき顔をしかめて苦しそうにしている。自分もそうなるんだったら、死ぬっていうのがわかった時点で、安楽死の方がいいんだとか言うでしょう。それも、安楽死になりそうになった人がそう言っているのならいいのですが、そうじゃない人々が、普段そう言うじゃないですか。だけど、それは大嘘で、危篤になって管をいっぱいつけられて、呼吸はしてるというときに、顔をしかめたりしても、それは苦しいからしかめるんじゃないんですよ。それはもうただ顔をしかめているだけで、苦しいも何もわからないんです。

例えば、尊厳死協会というのがあります。僕の妹はそれに入っているんだというのですが、そんなのはよせと言うこともないから、黙って聞いていました。もちろんそういうのはばかばかしいと僕は思っているわけで、尊厳死もヘチマもないんです。

それに加えて、死ぬっているのは自分のものだと思うのも間違いだ、と思っているわけです。だから、僕は重体になってからのことはぜんぜん考えない。どうしようと勝手にしてくれ、というだけです。苦しい、苦しくないというのは、僕の人間の身体とか生命とかの理解のしかたからすれば、重体あるいは危篤状態で管をいっぱいつけられているのは嫌じゃないですかと言うけど、そんなことは自分ではわからないんだから、いいじゃないか、できるだけ長く生かすというのが医者の考えだし、長く生きてもらいたいというのが普通の近親の願いだというだけであって、それが苦しいからどうとか、それははたから見ているからそうで、ご当人が苦しいかどうかぜんぜんわかりません。

だいたい死の直前に苦しみなんてないと死にかけた僕が実感上、そう思います。そのときには半分意識がないっていうか、痛くもないし、苦しくもない。ただ、顔は習慣上というか、それまで痛いときは顔をしかめてきたわけですから、そういうことはするだろうけど、それは苦しいからしてるんじゃないよ、とぼくは思っています。

だから、「苦しいだけなら、無理に延命治療などする必要ない」などという理屈は尊厳死協会に入る理屈にはならないっていうのが僕の考えです。だから、妹の場合も僕にそういうことを相談した上で入るかどうか決めるというなら、ちゃんと言ってやろう。でも、もう入ってしまったのなら、よせということもない。その程度のことです。

ぼくは五年ほど前に、水泳をしていて溺れて仮死状態になったことがあります。伊豆の土肥でのことです。

それで目がさめて天井を見たら、全然見たことがないな、ここはどこなんだと思って、人がいたから、なにか書くもの、と手で合図して、ここどこだって書いた。それだけです。別に苦しくもないし、夢も見なかったし、覚めたらごく普通でした。

僕は仮死状態でいたのは一日半と思っていますが、二日だという人もいるし、その日のうちだったんじゃないかなという人もいて、正確にはわからないです。ただ、頭はおかしくならなかったから、それほど長くなかったんだろうなと思っています。

少しも苦しくない。溺れかかった時も全然苦しくありませんでした。自然に手足が動かなくなって、わからなくなっちゃった。でも、苦しいと思うことはなかったです。あっ、これで終わりだ、というようなことはわかった。もうそれですぐに意識不明になりました。

吉本隆明『幸福論』

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