宗教の事件 03 辺見庸「不安の世紀から」

●メディア・ファシズムの“良識”

もう一人、私が注目しているのは、1929年生まれのドイツの詩人で評論家でもあるハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーです。彼の『意識産業』(石黒英男訳、晶文社)という本を学生のころに読んだのですが、いまでは書店になく、図書館でもなかなか見つかりません。しかし、私は名著だと思っています。われわれの仕事というのは、「マスメディア」などと気の利いたことをいうより、「意識産業」と呼んだほうがいいと思います。
この「意識産業」という著書のなかで、エンツェンスベルガーは、あらゆるメディア・・・・・・新聞や放送、雑誌だけでなく、広告なども含めて……意識産業として存在する前提条件としていくつか挙げています。たとえば政治的な前提としては、人権・平等・自由を建前をするというわけですが、これはまさにそうだと思います。そして第二には、発達した産業社会であることが必要であるというわけですが、もちろんこれは資本主義が前提であるということです。

つまり、こういうことです。意識産業というのは消費者とか受け手の意識というものを自然に、なごやかに収奪する。したがって、そこにはある程度の自由な意識が存在しなければならないというわけです。そしてもう一つ、個人的な判断力・創造力などもある程度個人の恣意に任されなければならないというのです。つまり、人権だとか、自由だとか、男女平等、機会均等、共生といったものを表面は決して抑圧するものではないというのです。むずかしい理屈でもあるし、あまり具体的でもないのですが、よくわかります。ともあれ意識産業は自由を抑圧しはしない。にもかかわらずエンツェンスベルガーは、意識産業というのは全体として社会の意味を収奪するし、それを無化するというのです。ここがポイントだと思います。エンツェンスベルガーはさらに指摘しています。「問題は、意識産業が国営化、公営化、私営化ということではなく、それがうけおっている社会的な委託の内容なのだ。この社会的委託は、今日程度の差はあっても、もっぱら、どこでも同一の内容をもつ。……つまり、どんな種類のものであろうと、現に存在する支配関係を永遠のものにするという課題である。意識産業は、意識を搾取するために、ひたすら意識を誘導しなければならないのだ」

エンツェンスベルガーが『意識産業』のなかで批判したのが知識人でした。意識的であれ無意識的であれ、知識人は意識産業の共犯者になる、と彼は述べています。もの書きとか、プロデュースする人とかディレクトする人たちというのは、好むと好まざるとにかかわらず意識産業をつうじてしか発表の場を得ないわけで、「現存する支配体制をセメントでぬりかためる」という意識産業が担う委託に加担してもいいのか、と問題を提起しているわけです。しかも、建前としては、装いとしては、われわれの産業というのはいま、まさに市民主義的です。しかし市民主義というのは気をつけたほうがいい。余談になりますが、破防法の団体適用の動きも、前段でイナーシアをつくりあげたのは、私はいわゆる良心的な市民主義ではなかったかと思っています。レーニンをもじるならば、まさに、地獄への道には善意というきれいな玉砂利が敷きつめられているのです。

エンツェンスベルガーのメディア論が非常に示唆的なのは、良い記事、悪い記事という二分法な発想からではなく、意識産業の本質的な機能という面から事態を見ているからではないかと私は思います。意識産業のなかには特定の悪党とか悪しき演出者がいるわけではない。暴力的に強制して、たとえば破防法に大いに賛成する番組をつくるなどとはだれもいってはいないはずです。にもかかわらず、全体として団体適用の手続き開始くらいには結実していくような流れをつくっていることは間違いないとわたしは思います。しかし、それは悪意ではない。むしろ善意、市民主義的な善意だし、非常に底の浅い善悪の二分法がそうさせているのではないかと思うのです。このような現状を称して、私は「メディア・ファシズム」であると主張しているわけです。

そして非常に短絡的にいえば、そのメディア・ファシズムのファッショ性を無意識に、巧みに、しかも善意を持って隠している良識というのが、たとえばあの「天声人語」のようなものではないでしょうか。あれはだいたい740字です。原稿用紙わずか二枚足らずで世界を論じ、善悪を論じ、世の中を嘆いてみせる。そこにあるのはクソ人間主義的な底の浅いヒューマニズムであり、実に楽天的な世界像の矮小化です。しかし、この非常に伝統的な「天声人語」的なるものが世の中の“良識”というものを形づくり、これら“良識”が堆積して、想像的意識を搾取し、無化し、イナーシアを全体的に支えていると私は思います。そしてこの良識は、現状を打破したり、イナーシアを留めたり、あるいは方向を変えたりするような者では断じてない。適度の社会批判、多少の反省、それが我々の日常にとってはもっともいいことなのだと、世の中はさして悪くも特別に良くもないと、そう説いているのであると、私は皮肉として申し上げたい。


(つづく)


辺見庸「不安の世紀から」(角川文庫)

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