村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 手応え

僕は昼食のためにまたスパゲティーを作ることにした。べつに腹が減っていたわけではない。それどころか食欲なんてほとんどなかった。でもいつまでもじっとソファーに座って電話のベルが鳴るのを待っているわけにもいかない。何かの目標に向けて、とりあえずからだを動かす必要があった。僕は鍋に水を入れてガスの火をつけ、それが沸騰するまでにFM放送を聴きながらトマトのソースをつくった。FM放送局はバッハの無伴奏のヴァイオリン・ソナタを放送していた。非常に上手な演奏だったが、そこには何かしら人を苛立たせるものがあった。その原因が演奏者の側にあるのか、あるいはそれを聴いている今の自分の精神状態にあるのか、どちらかはわからなかったけれど、とにかく僕はラジオのスイッチを切り、黙って料理を続けた。オリーブ・オイルを熱してそこににんにくを入れ、それからそこにみじん切りにした玉ねぎを入れて炒め、玉葱に色がつきはじめた頃に、あらかじめ刻んで水を切っておいたトマトを入れた。何かを切ったり炒めたりするのは悪くなかった。そこにはたしかな手応えがあり、音があり、匂いがある。


村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」

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