芥川龍之介 高校時代からの親友山本喜誉司あての手紙
山本喜誉司あて
・・・僕は酔つてゐる一方においては絶えず醒めてもゐる。僕は囚われてゐる一方に於ては、常に解放せられてゐる。生慾と性慾との要求を同時に一刻も空虚を感じないことはない。まるで反対なものがいつも同時に反対の方向に動こうとしてゐる。僕は自ら聡明だと信ずる、唯其聡明は呪ふべき聡明である。僕は聡明を求めて聡明のために苦でゐるのだ。其相搏つてゐる大きな二つの力の何れかゞ無くなつてくれゝばいゝ。さうしなければいつも不安である。かうまでも思弱まるほど意気地の無い人間なんだもの。君は嗤ふかもしれないけれども嗤はれてもいゝ。しみじみかう考へこむのだから。
いつまでたつても僕はひとりのやうな気がする。淋しい巡礼のやうな、悲しさが胸にわくよ。唯同じやうな(多少なりとも)感情を持つてゐる君が頼みになるばかりなのだもの。
君がゐなくなつたら僕はどうしていゝかわからないのだもの、いつか君にわかれる日がくるンじゃないかと思ふと、わけもなくつまらなく感じられる、見はなされるやうな気さへするよ君。
何をやつても同じ事だ、結局は同じ運命がくるのだし、誰でも同じ運命にあふのだから。
しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。種の為の生存、子孫をつくる為の生存、それが真理かもしれないとさへ思はれる。外面の生活の欠陥を補つてゆく歓楽は此苦しさをわすれさせるかもしれない、けれども空虚な感じはどうしたつて失せなからう。種の為の生存の、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。
究極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする。何度日記に「死」といふ字をかいて見たかもしれないのに。
さういへば其日記も此頃やめてしまつた、過去何年の日記は、皆嘘ばかりかいてある。唯あとで読んで面白い為なら、何も日記をつける必要はない、何故あんな愚にもつかない事を誇張して日記なんていつたろう。どうしていゝかわからない。唯苦笑して生きてゆくばかりだ、さうしたらいつか年をとつて死んでしまふだらう。死なないまでも今の思想とはまるでかはつた思想を抱くだらう、どうせ「忘却」のかなしみはいつか僕を掩ふんだらう。
気狂ひじみた事を長くかいた。けれども実際こんな考が起こつてとめどがない。よみかへすと君に見せるのが嫌になるかもしれないからかきはなしで君の所へあげる。誤字や脱字はよろしく御判読を願ふ。
切に試験をうまくやるのをいのる。
十一日夜十二時蝋燭の火にて 龍生
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