伊藤整 おれは今ならこのままのおれで

更に私は、「いい人」というものがこの世に実在することを信じている。私の言う「いい人」には間抜けとか、お人よしとか、ボンクラという意味は少しも含まれていない。私は生涯に四人か五人の人が、私に対して「いい人」であったと信ずる外のない記憶を持っている。いい人の内容はよく分らない。なぜそれ等の人がいい人なのか、それを証明する力も私にない。それは証明することがボートクのように感じられる性質のものらしい。私の見たいい人は、不思議なことにどの人も頭がよかった。また私の知ったいい人は、どの人も、あるとき、悪魔的な、手のつけられないような人になった。しかしその人には、真実のこと、もし真実というものがないならば、真実だと私が思い込むようなことを話すと、それがまっすぐに通じた。

私は自分ひとりでは、自分をいい人だと思ったことは生涯一度もない。しかし私は、私がいい人だと思う人に、いたわられたり、大事にされたりした記憶を持っている。その記憶は、それから後で疵だらけになったり、曇りが入ったりしたけれども、それでもそれが私の生活の中の宝石のようなものである。私は悪い人間であるけれども、いい人に大事にされたり、労わられたりしたことがある故に、自分を全く棄てたり、生きることに絶望したりできないでいるような気がする。おれの中にも何かがある。少なくともあの時、あの人間に、あのように扱われたことがある、と思うことは、生きることを力づける。多分そういう風にしてイエスの弟子たちやシャカの弟子たちは、いよいよ駄目になったときに自分を思い直すことができたのであろう。

酒は、そうだ、酒の話であった。私は田舎の中学校の教員仲間と酒を飲むことによって、酒の飲み方、酒の世間的な飲み方を知り、酒と嘘と妥協とが切り離されないものであることを知った。そして酒を酒席で飲むことはそのあと私の心の負担になった。

酒は、本当に苦しい自己否定のときには決して救いにはならない。私は三十歳位の頃に、まったく自分に絶望した。才能のことではない。芸術家が絶望したと言うと人はすぐ才能のことと思う。その時私は、道徳的に自分は恢復しがたい存在になったと信じ込んだのである。自分は自分から見てゆるし難い、とその日は思った。

夜の十一時過ぎに、私は中野の宝仙寺前と言われたあたりの電車道の居酒屋に入って、一人で酒を飲んだ。私は異様なことをするような気がした。一人で酒を飲むということは初めてであった。自分の考えるところのゆるし難い自分と、現実の自分との間をもう少し引き離し、へだたりをつけたら気持が楽になるだろう、とわたしは思い、そのためには、皆がしているように酒を飲めばいい、と考えたのである。酒のような外的なもので解決がつくなどと考えた私はバカであった。そこは、私よりももっと上手にそういう場所で酒を飲む大工や労働者や職工たちを得意にする酒場であった。しかしその人は客が少なかった。だから、着物を着流しにして髪を長く伸ばし、眼鏡をかけた私は一人でそこで酒を飲んでいるのは似合わなかった。

店のオカミサンがじろじろと私ばかりを見ているような気がした。私は自殺などということは全く考えなかったのだが、そのオカミサンの目つきを見ているうちに、オカミサンは、この人は自殺するのではないかしら、かかり合いになりたくないものだ、と思っているように感じ出した。そう思うと、私は酔わなかった。自然に、何でもなく見えるようにと私は努力し、その努力のために、あの銚子と盃という形式が大変邪魔になった。私は、二本ほどやっと酒を飲むと、そこを出て、三十分ばかり、暗い裏町を歩き回った。私は、そんなふうに見られながら、飲めもしない酒を無理に飲んだという屈辱感のために閉口した。酒を飲めばゆるし難いことがゆるされると考えたことの甘さから総てまずくなったのだと分った。そして私は、苦しいことを酒を飲んでまぎらすという習わしは実効のないものだと考えるようになった。

その後私は、酒の飲めない人間だと友達に言われ、また次には酒の味が分らない人間といわれ、その次にはなかなか酔わないから強いのだ、と言われた。

戦争になって酒が手に入らなくなった。やがて酒が配給になった。それ等の酒は私の家ではたいてい食糧と取りかえられた。もっと後になって、焼酎が少量ずつ配給された。またそのころ、砂糖の代わりにサッカリンが配給になった。私は夜、その焼酎にサッカリンを溶かして、一人で酒を飲むことを覚えた。誰もいない書斎で、深夜、仕事を終えてから飲むと、私は酔うことができた。夕食時に家族の中で酒を飲むのは私は嫌いである。食卓で酔ってだらしなくなるのは、悪徳のように感じられる。それに夕食のあとの四五時間は、私の仕事の時間である。私は深夜に飲むことにした。

仕事が終り、気づかいをする人間がそばにいないと思って酒を飲むと、茶碗に一杯の焼酎で完全に酔う。それはしかし淋しい暗い酔い方である。夜の闇の底の泥のようなものの中に身体が埋まって行くような気持になる。焼酎の酔いは暗い重いものであると人も言うが、一人で深夜に飲むと一層その感が強い。日光の中で風景が揺れ動き、地面が浮動した十八歳の時の酔い方とは全く別のものである。だが、そうして酔って眠ると、普通の眠りの、自分の身体がまだどこかにあるという感じが全く失われて、自分が無に、零になって眠る。自分の存在から切断されてしまう。そしてふだんよりも早めに、朝、突然生の中に浮び出るように眼がさめる。酔ってから他人の間を歩いて家へ帰るという心配もなく、自分が自分に禁止した事を言ったりしたりする心配もなくこの飲み方は、私のような人間には適している。おれは今ならこのままのおれで許される。おれは今だらしなくおれ自身になっても、何人にも迷惑をかけず、誰をも傷つけずに、我を忘れていられる。何といういい事だろう。そう思うと、私ははじめて酔うことができる。こうして戦争の間に私は一人で酒を飲むことを覚えた。

こうした深夜に一人で飲むのは、今ではビールでもいいし、葡萄酒でも、ウイスキイでもいい。私の好みはいい葡萄酒であるが、一般の葡萄酒は何となく薬くさく、アルコールに葡萄の味をつけたような感じがする。日本酒はいけない。日本酒は、あの宴会という日本の社会の儀式と義理と人情と思い出させ、そばに人がいるような感じを目ざませて私を窮屈にするのである。もっとも私も今では、人といる席の日本酒にもずいぶん慣れたから、他人との調和をこわさずに、適度に日本酒を飲んで、適度に酔うことも、やればできる。だがそのように思うのは、どうしても、私に酒乱の傾向があるからなのであろう。


伊藤整 「酒についての意見」

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