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【ジョーカー】(2019年)映画評:全盛期松本人志コントとの類似性

今更ながら『ジョーカー』の話。観たのもだいぶ前だし、
すでにこの映画についてのあれこれは語り尽くされて食傷気味ではあるが、書くタイミングを逃してしまった。
 映画をよく観る人なら、本作がマーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』、さらには『フレンチ・コネクション』や『狼よさらば』といった70年代の治安最悪なニューヨークを舞台にしたアクション映画から多大な影響を受けていることは一目瞭然だろう。
『魂のゆくえ』の記事に『タクシー・ドライバー』について詳しく書いたので、ここでは割愛する。


 『ジョーカー』を『タクシー・ドライバー』の切り口で紐解くのは正攻法過ぎて面白みがない。ここでは僕の率直な感想をベースにしていきたい。
それは、「あー松本人志って、こういう映画が撮りたかったんだな」ということである。

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 テレビ業界において、松本人志が映画を撮っていたあの時代は完全に「無かったこと」にされている感がある。かくいう僕も二度と見返したいと思わない。もともと松本さんは週刊プレイボーイで映画評のコラムを連載していた。それはベストセラー『遺書』のような語り口で、尊大で傲慢で非常に上から目線だったと記憶している。

とはいえ、90年代から一貫して「日本で一番センスのある人」だった彼が「面白くない」と言えば、そこに一定の説得力が生まれるのも確かだった。
 そして満を辞してメガホンをとることになるのだが…その後、どうなったかは皆さんもよくご存知だろう。どれだけ好意的な捉え方をしようとしても、やはり「映画としては退屈」と言わざるを得ない仕上がりだった。

 ただ松本さんが何を目指していたのかー今回の『ジョーカー』が補助線となって、それが何となく分かったような気がした。松本さんのライフワークは、つまるところ「一番面白い笑いとは何か」の探求ではないかと僕は思う。ワイドナショーでの不用意な発言の数々など、正直かなり残念になってしまった感もあるが、いまだに「水曜日のダウンタウン」や「ドキュメンタル」などで、常に新しいものを生み出そうとする求道者としての姿勢は一貫している。

 松本さんのレガシー、つまり後世で彼がどのように評価されるかを考えた時に、最大の功績は「お笑い芸人がいっちゃんオモロいねん」という文化を築き上げたことだと思う。そこには、「〇〇軍団」といった感じで、後輩の舎弟を引き連れて、居酒屋で深夜まで「お笑い論」を語り明かすといった、いわゆる芸人イメージの構築も含まれる。師匠と弟子といった従来の制度を解体したのが、NSC第1期生の松本さんだからだ。

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 プロレスで例えるなら、松本さんはまさにアントニオ猪木のような人だ。モハメド・アリと異種格闘技戦をしたり、総合格闘技に接近したり、とにかくプロレスラーの地位向上、そして自分たちこそが最強だと世間に示すことに奔走した猪木同様、松本さんもお笑い芸人が一番面白い存在、自分たちは特別なんだと誇示してきた。笑いを徹底的に突き詰め、追求している自分たちだから到達できる所があるというこの考えは、ある程度正しいように思える。「素人がお笑い語るな」とか「芸人のモノマネしてるだけで面白いと勘違いしてるヤツはイタい」みたいな感覚も、全て松本さん以降に言語化されたものと言って差し支えないと思う。

 ところがことお笑いに関しては、めっちゃつまらない奴が時として大爆笑を取ることもできるという不思議な逆転現象が起きる。あるいは「天然ボケ」「不思議ちゃん」に代表されるように、誰かを笑わず意図がないからこそ、その人の言動に笑わずにはいられない存在もいる。だとすると、「笑い」を突き詰めることに根本から矛盾しているのではないか。

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 ダウンタウンと常に対比されてきた、とんねるずは正にそこが斬新だったのだと思う。「学生ノリ」「内輪ネタ」という、松本さんがもっとも忌み嫌うであろう「素人の笑い」だけで、しかし彼らはスターダムに登りつめたのだ。さほど似てないモノマネと意味不明なブリッジだけで。

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 その代わりにとんねるずにはお笑い芸人としてのエリート意識は一切ない。積極的にアスリートや役者と絡み、彼らとたわいもない話をする。笑いを一切突きつめようとしないところが、しかし逆説的に誰よりも笑いの本質を理解しているようにも見受けられる。

 しかし松本さんが凄いのは、お笑い芸人がアスリートのように誰よりも面白い存在であるべきと主張しながらも、この逆転現象に誰よりも自覚的なところだと僕は思う。自分の考え、願望にも似たポリシーが、しかし絶対に完成することはないということを完全に理解しているのだ。この前提にたてば、彼が作った映画はすべてこの自己矛盾と葛藤をテーマにしているように読み解くことが可能だ。

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『ジョーカー』の主人公アーサーは、全くギャグセンのないコメディアンだ。彼のネタは全く面白くない。ところがそんな彼がジョーカーに目覚めて以降の行動は、観客を虜にする。狂人が狂うところを見せ方によって笑いにするというのは、実は松本さんの最も得意とするところだ。ごっつええ感じの人気キャラ「キャシー塚本」がその典型例だろう。

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 もう1つ『ジョーカー』と松本映画の共通点となるのが、積み木くずしのような構成にある。『ジョーカー』は、語り手であるアーサーの頭がイカれているため、どこまでが本当でどこまでが嘘か分からない、人を食ったような物語だ。

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 これは僕の解釈だが、あのストーリーは結局全部彼の作り話で、何から何までが「うっそぴょ〜ん」というオチだったんだと思う。
「ゴルゴ13」で、デューク東郷のオリジンエピソードがいくつか出てくるが、あれに近い感じ。この話は正解かもしれないし不正解かもしれない。何もかもが曖昧模糊としている、実に素晴らしいエンディングだ。

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ジョーカーには「Why so serious?」(なにマジになっちゃってんの?)という名言があるが、彼は観客たちを欺き、自分に感情移入させるための悪質なイタズラを仕掛けたのかもしれない。
さながら『ユージュアル・サスペクツ』のオチのように。

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 最後に今まで積み上げてきたものを全部ぶっ壊してしまう展開は、それまでの積み上げ方が緻密かつ丁寧なほど、大きな効果を生む。対して松本映画はここが決定的にダメだった。
それまでのストーリーテリングがずさんな上に、それをグシャっと潰されると「じゃあもうどうでもいいよ」という気分になってしまう。
あれは明らかに話運びに難があったが、しかしおそらく狙いは『ジョーカー」と同じ効果を期待していたのではないだろうか。

 こうやって書いてみれば書いてみるほどに、『ジョーカー』の笑いと松本さんの笑いは通底している気がする。特に「トカゲのおっさん」とか傑作ネタを連発していた頃の松本さんは、居心地の悪い笑い、アウトサイダーがどんどん不幸になる哀しい笑いを作り出すことができた点で唯一無二の存在だったように思う。ただ、もし松本さんが『ジョーカー』を観ていたとしても褒めないんじゃないかな。なんとなくそんな気がする。なんとなく。

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